【ファンタジー小説】優しい午後の歌/第五話「遭遇」
臭気と恐怖で吐き気がする。胃の中のものを戻しそうになった。
すると、ポワッと室内を照らす淡い光が満ちた。光はみるみるうちに人型になった。立ち込めていた嫌な空気はその人物が現れると完全に消え去った。あろうことか、人骨さえその光に呑まれて消えた。
光はやがてハッキリと女性の形をとった。腰まで伸びる淡いグリーンの髪は真珠のような光沢。こちらを見る瞳は海を写したような青だった。薄手の絹の服から覗く白い手は透けるほど……いや、実際透けていた。足首から下は背景と同化している。
最上階は展望室のような作りだが、古びた今では石の牢屋のようだった。月光が美しい人を照らし出す。歌をやめた女性は僕を見た。
「やっと来てくれたのね」
形の良い唇から紡ぎだされる涼やかな声。
「君は誰?」
そう言うのがやっとだった。霊感は確かにあって、この世ならざるモノは見てきたが、こんなにはっきりと実体が見えるのは初めてだった。
幽霊は名前を尋ねる僕に不機嫌そうに目を細めた。
「名乗れというなら、貴方からでしょう?礼儀をわきまえなさい」
その口調はなんだか威厳に満ちていて、僕は思わず叱られた子どものような気持ちになった。彼女の周りにある空気は威圧的だが、そこに気品も感じられる。
僕は素直に従うことにした。
「僕……違った、私はコテント国の第一王子、イーナバス・コテント・トリアで、ございます」
今日、おさらいしたコテント国の最上級の挨拶。膝を折り、深く、丁寧にお辞儀をする。緊張で足が少しもつれた。何故か、彼女の前では緊張してしまう。
それを見抜いたのか彼女はふふっと笑いをもらした。そして、居住まいを正し、キリッとした顔つきになると、軽く手を鳴らした。すると、瞬く間に彼女の服は薄衣から絹のドレスへと変わった。
「私は、イーナバス・コテント・ミスティ」
縁のレース細工が美しいドレスの裾をつまんで、優雅にミスティは頭を下げた。これもコテント国の最上級の挨拶。そして「イーナバス」と名乗る彼女はコテント国の王族と宣言した。
「君は、誰なの?」
僕は震える声でやっとそう口にするのが精一杯だった。ミスティは、名前を偽ってないとしたら、王位継承者だ。その彼女は、殺されて幽霊になっている。そしてこの古びた塔に棲みついているのだ。
「誰って、今、名乗ったじゃない」
ミスティは全く、動じていない。口元には笑みさえ浮かんでいる。僕は震えが止まらなかった。忌み嫌われた悪霊のたぐいは王宮という特殊な場所か、今まで何度も見てきた。だけど、僕はこんなにハッキリとした幽霊を見たことがない。しかも、名乗った所によると、この姫は王位継承権がありながら、殺されているのだ。
「じゃあ、ミスティ。君は何でこの塔にいる」
「……何故?馬鹿ね。出たくても出られなかったのよ。幸せな王子様」
まさか。僕は、今さらながらハッとした。この塔は怨霊を封じ込めるための強力な結界だったのかもしれない。だとしたら、僕がここに来ることによって、その封印が解かれてしまったのか。
「……もしかして」
「そう、もしかしてよ、トリア。私、毎日あなたを歌で誘っていたの」
あの歌。言葉の意味のわからないあの不思議な歌。
「……君はセイレーンか」
「馬鹿なこと言わないで。今日からあなたについていきますから」
不敵に笑うその顔はうっとりするほど美しい。名前だけで彼女の正体を知る由も無い。僕はとんでもない失敗をおかしたのかもしれない。
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