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窓際席のアリス様 #31


「おー、悟!こっちこっち!」

 頭に白いタオルを巻いた慎之介が手招きをしていた。
 今日は一日、悟の働く喫茶店が臨時休店となっていた。

 店内は机と椅子が隅へ届かされ、大きく通路が作られていた。
 すると、お店の前に2tトラックが止まり、4人の青いシャツを着た男たちが布に巻かれた大きな物を慎重に出していく。

「もっと斜めに!入口気をつけろよ!」

 男たちはその大きな物がお店の扉に引っかからぬよう、ゆっくりと丁寧に運ぶ。
 その様子を恵と恵の母はおろおろとしながら見守り、恵の父は何故か得意げであった。

 お店の奥までそれを運ぶと、男たちはまたトラックへと戻り、残りの部品と工具箱を持ち出してきて、組み立てを始めた。

 作業時間は小一時間ほどであっただろうか。
「終わりました」
 その一言に、皆は胸を撫でおろし、そしてそれに見惚れた。

 それは大きなグランドピアノであった。
 横幅は1.5メートル、奥行きは2メートルぐらいだろうか。
 本格的なピアノの黒い輝きは、店内の照明を滑らかに反射している。

「すごーい!本当にうちの喫茶店がお洒落になっちゃった!」
「ははは!すごいだろ!」
 恵は目を輝かせ、彼女の父は自慢げに高笑いした。

「おい、じゃあ悟と慎之介、テーブルと椅子戻すの手伝ってくれ」
「はーい」

 そういうと、せっせと隅へ寄せたテーブルと椅子を戻し始めた。
 話を聞くところによると、このピアノは恵の父の知り合いが経営する楽器屋から購入したらしく、本来数百万円はくだらない代物を数十万円という破格で譲り受けたのだという。

 だが、たかだか一店舗しかない小さな喫茶店がただお飾りでピアノを買うわけがない。そこまで至るに、それ相応の経緯というものがあったのだ。
 悟と慎之介が店内の整頓をしていると、チリンチリンという扉のベルが鳴り、3人の人影がお店へと入った。

「悟ー!おひさー!」
「おぉ、梓!それに詩!」

 梓は元気よく手を振り、詩は恥ずかし気に小さく会釈をした。
 もう一人の人影は見慣れない、ひょろっとしたやせ型の長身の青年であった。
 その青年は扉の前でお辞儀をし、恵の父のほうへと歩いていくと、挨拶をした。

「こちらのピアノの調律で参りました、私、カノン株式会社の垣根と申します。どうぞ宜しくお願い致します」
 そういうと名刺を渡し、垣根は深々と頭を下げる。

「こちらこそ、宜しくお願いします」
 名刺を受け取ると、恵の父も同じく深々と頭を下げた。

「それでは、少しピアノを拝見させて頂きますね」

 垣根はピアノの屋根を突っ張り棒で固定し、鍵盤蓋をゆっくりと開ける。
 そこには埃一つない、真っ白な鍵盤が綺麗に並んでいた。
 垣根はその細い指でそっと鍵盤に触り、ちょうど真ん中あたりの鍵盤を音階づつ鳴らしていく。
 悟と慎之介はその光景をただ眺めていた。

「ちゃんと定期的にお手入れされているみたいなので、これであれば2時間程度で調律は終わると思います。宜しいですか?」
「お願いします」

 恵の父、そして恵の母も頭を下げた。
 了解を得た垣根は、調律に必要な道具を並べ、音階を整えていく作業へと取り掛かる。

 その間、ある程度作業の終わった悟と慎之介と梓と詩は、ピアノの調律の邪魔にならないよう端っこにある角のボックス席でジュースとお菓子をつまんでいた。
 恵の父と母は厨房へと行き、今日の夜に行われる喫茶店の創業記念パーティーに向けて仕込みを始めている。

「いやー、本当一時はどうなるかと思ったよ」
 慎之介が額に巻いたタオルを外し、炭酸の効いたソーダを一気に飲み干す。

「まぁ、まだ始まったばかりだからね。あれからどうなの?」
 悟は梓と詩を見つめた。

「おかげさまで、家族仲良く……とまではいかないけどみんなで頑張ってるよ」

 梓は照れるように笑った。
 詩もそれにつられ、恥ずかしそうに微笑む。

 あの誘拐事件からあっという間に1ヶ月が経過した。

 悟と慎之介が床に頭を下げ、千葉が彼女たちの親を叱責したあの日から、運命の神様というのはどうやら子供たちに微笑んでくれたようで、物事が好転していった。
 それでも、6年という家族の失われた時間というのはすぐに戻るわけでもなく、梓と詩が一緒に手を取り合い、ゆっくりと歩幅を合わせ歩いていこうと決意したようであった。

 以前は悟の家に居候していた梓も、今ではふらふらと夜を徘徊することはなくなり、きちんと家に帰っている。
 詩は、今まで親の言うとおりにしかできなかったが、あの夜に親に初めて反抗したことが幸いしたのか、彼女の中で何かが吹っ切れたようで、自分のやりたいことを口にするようになった。
 そしてそれが初めて形となったのが、この喫茶店でのピアノである。

「それにしても、まぁあんなでけぇピアノ、よく買ったな」
「パパが悟と慎之介に感銘しちゃってさ。それに詩ちゃんの一声もあったからね。即決だよ即決。本当、家族のこと考えないんだから」
 恵はため息をついた。

「本当に、ごめんね星野さん。私のわがままがまさかこんなことになるなんて」
「いいのよ。それにこれからここで働くことになるんだからさ。恵でいいわよ、そんな堅苦しく呼ばないで」
「じゃあ……恵さんで」
 照れるように詩は呟いた。

 きっかけはつい3週間前のことである。
 学校へと登校し始めた詩は、昼食の際、ある動画を悟と慎之介と恵にある動画を見せた。

 それは都庁に置かれた黄色いピアノの演奏動画であった。
 いわゆる「ストリートピアノ」というものだ。

 その動画を見ながら、「私こういうのやってみたいんだ」と恥ずかしそうに言った。
その時は、学生ノリというもので、「やってみようぜこれ!」なんて言ってた3人もまさか実現するとは思っていなかったのだ。
 だからこそ、ここまでとんとん拍子に物事が進んでしまっていることに若干の困惑を覚えている。

「詩、指の調子どう?」
「うん、今までで一番いいよ!」

 ピアノを弾くためには、詩の腕の治療が最優先である。
 6年前の家族旅行での怪我は末端の痺れとして、古傷が残っていた。
 ストリートピアノ実現のため、古傷の治療をする場所を探した結果、見つかったのが、小さな鍼灸院であった。

 その鍼灸師の腕が良いおかげか、詩の指の痺れはだんだんと落ち着きを取り戻し、以前と比べると、だいぶ指の痺れが消えかかっている。
 そして、タイミングよくピアノの話が舞い込んだものであったから、商売上手な恵は詩へとある頼みごとをした。

「お金をもらってピアノを弾いてもよろしいんでしょうか?」
「なにいってんの、バイトよ、バイト」

 恵はにししと笑った。
 詩は戸惑いながら、顔を緊張に出した。

「それにしてもよく親がオッケーしてくれたわね」
「はい、梓も一緒っていう条件がクリアできましたからね」
 そういうと詩は梓を見た。

「本当、美人なピアニストとウエイターが増えてうちは万々歳よ」
 恵はテーブルの上にあるお菓子皿からフィナンシェを一つ取り、もぐもぐと食べた。

 以前まで、過保護であった両親詩はアルバイトを禁止されていた。
 だが、詩のストリートピアノがやりたいという希望と、タイミングよく舞い込んだピアノの話もあり、喫茶店のピアニストとして詩をアルバイトに雇ったのだ。
そしてもう一つの条件であった梓も、ウエイターとしてアルバイトに雇われた。

 それから2時間の時間が経ち、垣根が「調律が終わりました」と声をかけた。
 厨房から恵の父が戻り、ありがとうございますとお礼を言う。

「詩ちゃん、ちょっとこっち来てくれ」
 恵の父が詩を手招きする。
 詩は立ち上がり、ピアノのもとへと向かった。

「調律が終わったよ。詩ちゃん、一曲弾いてもらえんか?」

 その言葉に、詩の嬉しさがこみ上げ、唇を噛んだ。
 彼女は招かれるがままに、ピアノの前に立つと、深々と一礼をした。
 そして椅子に座り、白い鍵盤を優しくなでる。

「自由に弾いてください」
 垣根がにっこりと笑った。
 詩はそれに答えるように頷いた。

 鍵盤に白い指を乗せる。
 喫茶店の無音が揺れ、詩の指は鍵盤を駆けていき、旋律を奏でた。
 優しい旋律は、神秘ともいえる揺らぎを生み出し、心に溜まった濁りのようなものを浄化していく。

「なぁ、これなんて曲だっけ」
 悟が梓に聞く。

「ショパンのノクターンよ。これぐらい知っておきなさいよ」
 梓は常識でしょこんなのとさも当然のように答えた。

「普通は知らないって」
 恵はため息をつき、アイスコーヒーに口をつける。
 悟は知らないことに対して「悪かったな」と少しの苛立ちを覚えたが、梓の持つ知識量に尊敬と驚嘆をした。

 以前の居候の時にも垣間見えていたが、なんだかんだで梓は頭が良かった。
 梓は現在通信高校に通っているが、実際その成績はずば抜けてよく、県内の進学校に通っている悟や慎之介、恵ですら多分追い抜いているのではないかと思うほどである。

 実際、梓は非行などしていなければ普通に高校を通えていたかもしれないが、結局のところ、親との不和が続いてしまったせいで、通信高校となってしまった。
 彼女が非行を止めた今、彼女がわざわざ通信高校に行く理由がない。
 悟は彼女がどうにかして編入させられないかと必死に探していた。

「ねぇ、梓」
「なに?」
「高校変える気ないか?」
「あー……うん、変えられればね」

 梓は寂しげな目をし、ため息をついた。
 悟も悔しいが、一番悔しいのは彼女自身なのだろう。

 美しい旋律が店内に響き渡る。
 ふと、詩の顔を見ると、いつにもまして楽しそうな笑顔を浮かべていた。
その様子に、梓は微笑む。

 悟は天井を見上げた。
「今はゆっくりと進めばいい」
 そんな言葉が、ピアノの音に混じっていたような気がした。

(つづく)

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