窓際席のアリス様 #13
「―――ということで母さん、今夜梓さんと泊めることになった」
玄関を開けるなり、開口一番に悟は母に告げた。
もはやこれでだめだと言われることなど考えてはいなかった。
考えないようにしていたのだ。行き先がないのだから。
悟は母の「責任」という言葉を信じ、事前に連絡を入れることなく梓を家まで連れてきた。
「布団、あとで用意しとくから自分で持って行ってね」
母はそれだけを言って悟と梓を家の中へと入れた。梓はバツの悪そうな顔を浮かべたまま黙っていた。
悟もああだこうだということなく、無言のまま自分の部屋へと招き入れた。
「悪いね、散らかってて」
「ううん、大丈夫……」
悟は梓の姿に心配を覚えた。
ファミレスでの彼女の威勢はすでにどこかに消えていて、熱を帯びた煙だけを灯すろうそくのように限界を迎えている様子だった。
梓は部屋に入った途端、悟のベッドに横になり、布団をかけずにそのまま目を瞑ってしまった。
「あ、おい……梓さ」
悟は彼女の肩に手を伸ばすが、すでに寝息を立てていていた。
しょうがないかと彼はため息をつき、彼女をベッドに寝かせたまま下の階のリビングへと向かう。
リビングには電気がついていて、母がソファーで寛ぎながらコーヒーを飲みながらテレビドラマを見ていた。
悟が降りてきたことに気付いたのか、母はテレビを消し、コーヒーをテーブルに置いた。
「座りな」と促され、悟と彼の母は向かい合う形で食卓の椅子に座った。
「梓ちゃん……で間違いないわよね。どこで会えたの?」
「ホテル前だった」
「ホテル前?」
「うん。無法区のね、VIZIOってホテルの前でね、サラリーマンに連れ込まれそうになったところをね」
「よくあんたにそんな勇気あったね」
「いや、褒めてよ」
「冗談だよ。よく助けてあげたね。おつかれさま」
それから悟はこれまであったことを母に話した。
母はうんうんと頷くだけで、さほど口出しすることはなかった。
「私から言えることは特にないけど、きっと彼女なりに答えを探していると思うよ。でもホテル前にいたっていうのはあまりよくないね。気を付けなよ」
「うん」
「家庭事情のこととかは私が聞いておくから、あなたはとにかく2人を守ってあげることだけを専念しなさい」
そういうと悟の母は立ち上がり、彼の肩を叩いた。
悟には未だ戸惑いがあった。
一人っ子の悟には兄弟というものの感覚が分からずにいたからだ。
親と子の関係とも、幼馴染とも、親友とも違う、血の繋がりという特殊な関係。
悟にとってその未知なる関係は、人を変えてしまうほどに強く結びついているものなのだと分かっていても、理解することは出来ない。
だからこそ、実の妹を亡くした母の言葉には説得力があった。
多分、お互いの話を聞きいることが出来るのは今この場において母が最も適任であった。それと同時に、悟は任せていいんだという安堵と、守らなければいけないという正義感に満ち溢れていた。
悟はそのままリビングを後にし、お風呂へと直行する。
体の疲れを入念に洗い流し、お風呂へと浸かりながら天井を見つめ、今日起こった出来事を走馬灯のように思い返していた。
無我夢中で必死に誰かを助けようとしたことなどあっただろうか。
小学生のころなんて、逃げて泣いてばかりで、「弱虫」だと言われ続けたことをふと思い出した。
泣いてばかりいた悟は、よくクラスのガキ大将とその取り巻きにいじめられていた。
悪口なんて日常茶飯事、殴る蹴るが当たり前であったが、教師はそれを「ただの子供のじゃれ合いだ」と見て見ぬ振りをしていた。
そんな悟にも助けてくれる仲間がいた。
幼馴染の神木 慎之介と星野 恵である。
慎之介は喧嘩っぱやくて体もでかいものだから、悟に手を出す輩を鉄拳制裁してすぐに職員室に呼び出されていたし、恵も男勝りに強気な性格で、男子に向かって口喧嘩をして何度も泣かせていた。
「悟は優しすぎるんだよ」と恵に何度も言われたが、彼にはそれをどうすることもできなかった。人に好かれることよりも傷つけることを何よりも恐れていたのだ。
そんな弱った悟をみていた悟の母の勧めで、小学生のころから空手を習い始めた。
誰かと戦うための武術ではなく、何事にも毅然と振る舞う心を鍛えるための武術だと悟の母は彼に言い聞かせたが、その当時の彼にはそれを理解することは出来なかった。
結局、「弱虫」というあだ名は空手を始めても消えることなく、中学生となっても言われ続けた。
挙句の果てに、悪い知恵をつけたいじめっ子たちは、空手をやっている悟が素人に手出しできないことを知ってたために、彼らの力自慢のためにサンドバックになり、ボロボロになるまでいじめられた。
結局、空手をやっていても悟は何も変わることができなかった。
そして悟は、空手をやめた。
あの時は「弱虫」と言われて悔しかったが、今では当然のことだということを認識できる。
悔しいと思うだけで、自分を変えることは何一つとしてしなかったのだ。
もし、悟が優しいだけのままの人間だったら、梓を助け出すことは出来なかっただろう。
変われたなんておこがましいけれども、手のひらに小さな勇気を握りしめた感触が彼はに確かにそこにあった。
(つづく)
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