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静 霧一 『幽霊東京』


 もう1年も前のことだ。
 頭の上に糸が見え始めたのは。

 糸が見え始めた直後は、その鬱陶しさに何度も鏡の前でその糸を必死につかもうとするが、それは手を透き通って掴むことが出来なかった。
 私が疲れているだけなのだろうか。最初はそう思っていた。

 私はそう思いながら、いつも通り家を出て、会社へと向かう。
 いつも通り、私はホームで電車を待っていたが、ふとあたりを見渡すと、ホームで私と同じく電車を待つ人たちの頭の上から糸が空へと伸びているのが見えた。

 私は戸惑いながら、慌ててスマホを開き、検索バー「頭 糸」と打ち込む。
 だが、そんな項目などヒットするはずもなく、私は余計に混乱した。

 糸が見えているのは私だけなのだろうか。
 あたりをきょろきょろとしていると、ちょうど向かいのホーム、並び口の先頭に立っているサラリーマンと目が合った。

 だが、そのサラリーマンは私から伸びる糸など気にもせず、スマホに視線を戻した。
 きっとこれはなにかの目の錯覚だ。そうに違いない。
 私はそれを気にすることを辞めた。

 その後も、私はいつも通り会社へと着き、いつも通り仕事を終えた。
 家に帰り、私は一息つく。
 鏡の前に立つが、そこには朝と同じく、糸が頭の上から伸びていた。

 この糸は不思議なことに、私以外の他の人には見えていないようであった。
 気にしないようにしよう。これは幽霊の類と一緒なんだ。
 そうして私はいつものように眠りについた。

 私はこの日、東京という住処の幽霊となった。

 ◆

 信号機を待つ私の手がかじかむ。
 私の口から出た吐息が白く凍り、1月の寒さを感じさせた。

 時刻は18時30分を指している。
 東京を行き交う仕事終わりの人々は、コートに身を包みながら、早歩きで私を追い抜いていく。

 それは寒さのせいなのか、東京という孤独な住処のせいなのか。
 私は生き急ぐ東京に棲む人たちの群れを見て、相変わらずの「東京」という街の空虚さに嫌気がさした。

 寒いのは嫌いだ。
 余計に、独りを感じてしまう。
 孤独であることを寒さのせいにしてる私はもっと嫌いだ。

 歩行者信号が青を表示する。
 進めのマークが表示され、勝手に足が動き出す。
 横断歩道を真ん中まで歩いたところで、私は立ち止まった。

 いつの間にか、私は何も考えずに前に進んでいた。
 誰にも命令などされていない。
 私の意志で進もうと思っていない。
 ただ、歩いたのだ。考えもせずに。

 東京という空箱から垂れ下がった糸に繋がれた私はマリオネットのようであった。
 右側を歩くサラリーマンも、左側をあるくOLも、それぞれの頭の上から、東京の夜空へと伸びる糸が見える。
 それを気にしている人など誰もいなかった。
 私はこの糸が、憎らしくししかたなかった。

 その糸が日に日に濃くなっていき、私の体が少しづつ透けていく。
 それを私はいつのまにか許してしまっていた。

 ◆

 田舎から上京してきた直後の私は、東京という偉大な街に圧倒された。
「なんとすごいところなんだろうか」
 そんな感動が私を昂らせ、土臭い田舎人間の皮を剥けたように思わせた。

 大学を卒業し、東京にも慣れ始めた私は、みなと同じように就職した。
 東京に来て、唯一の苦労と言えば、就職活動だろうか。

 なんのスキルも取柄もない私にとって、「個人」を表現するということがいかに難しいことであるのかを痛いほどに感じさせた。
 田舎に帰れば、何も苦労せずに、父親のつてで就職できたが、断固として私をそれを拒否した。
「東京で働くほうがかっこいい」
 たったそれだけの理由のために、傷だらけになりながらも、意地を張って就職活動をつづけた。

 やっとのこと就職を出来た会社の事務職も、今年で7年目を迎える。
 そつなく仕事をこなし、日々食べられるだけのお金をもらう。
 休日は好きな漫画や映画を見て、友達とお酒を飲みながら、やれ恋愛だの、やれ仕事だのと愚痴を漏らす。

 最初はそれが心地よかった。
 だがそれが今では習慣へとなり果て、友達を呼べば、同じ話を繰り返し、同じ愚痴を吐き、同じだけ酒を飲むようになった。
 ふと、隣の席を見ると、同じような背格好をしたグループが同じような話を繰り返していた。

 そんなことを繰り返していたある日の月曜日に、頭に糸が見え始めたのだ。
 最初は何かの病気かと思ったが、私の体はいたって健康体であり、それは病気でもなんでもないことが分かった。

 その糸にも見慣れてきた頃、少しづつ私にも変化が起き始めてきた。
 糸にも濃さというものがあるということが分かったのだ。

 比較的若い人は糸は薄っすらとした白だが、歳が増していくにつれ、糸がだんだんと濃くなっている。
 そしてその糸が濃ければ濃いほど、その人の体は透けている。

 まるでそれは東京の景色に同化しているようにも見えた。
 私はそれが分かってからというもの、東京という都市に怯えた。
 燦然と輝く都市は、ありとあらゆるエネルギーというものを食い尽くし、それでも足りないと、そこに棲まう人の世界までも食らうようになったのだ。
 それほどまでに、東京は人を惹きつけるためにその煌びやかさを必要とし、それを保つために、醜く成長していた。

 その怯えが私に現実を突きつけ、思い描いた理想を否定していく。
 私の体も意志も、私の物であったはずであった。

 子供の頃、漫画家になりたいと夢見ていた私はもうどこにもいない。
 今あるのは、小さなワンルームに取り残された私と、少しの貯金。
 一度だけしたくもない婚活をしたことがあるが、結果は見事に惨敗。
「年齢」を見ないで私の中身を見てよと心の中で何度も叫んだが、現実はそう甘いものでもなかった。
 とにかく私はこの東京で幸せになりたいと藻掻き続けた。

 そんな私にも、たった一人だけ応援してくれる人がいた。
 私のタイプの顔でもなければ、好きな性格でもない人。
 その人は私がひそひそと描いてネットに上げた絵を、幾度となく褒めてくれた。
 最初は嬉しかったが、だんだんとそれも鬱陶しくなり、いつしかそんなことでさえ、私は見て見ぬふりをして、挙句の果てに、嫌われるために唾まで吐き捨てた。

 それでもその人は、未だに私を応援してくれている。
 なんて最低な人間なんだろうか。
 私だけ悦べればそれでいい。私はいつの間にかそんな人間になっていた。
 それは醜い東京の姿そのものであった。

 今更謝ったところで、私はきっと許されないかもしれない。
 私が涙を飲めば飲むほどに、身体は少しづつ透けていった。

 ◆

 歩行者信号の青が点滅する。
 流れるメロディーのテンポが転調し、進むことを強要する。

 ここで立ち止まってしまえば、私は死んでしまう。
 きっと、このままが身体が透けていって、きっと東京の景色の一部になってしまう。
 そうなってしまえばどれだけ楽だろうか。
 葛藤する苦しさも、給料日前の緊迫も、夢が叶わぬ絶望も、あの人への苦悩も何も感じることがない。
 そうそれは東京に棲みつく幽霊のようなものであって、私であって私でないないものになるということだ。

 あの狭くて泥臭い田舎から出れば、自由になれると思っていた。
 それでも現実は、それよりも狭い箱の中であった。
 結局、何もしなければ、どこにいようとも同じなのかもしれない。
 私は自分が何も選択できないことを東京のせいにしていた。

 自分の可愛さゆえに、「きっと大丈夫」などと呟き、輝かしいであろう未来に自分への期待を込めた。
 だが、そんなものは、今ここで変われるものが抱く希望なのであって、明日から変わろうと思っている私にとっては決して掴めぬ空想なのだ。
 泣いてたって前には進めないし、諦めたって前には進めない。
 戸惑う中、ふと声が聞こえた。

「私は君の描く世界が好きなんだ。だから自信を持って」

 あの人が言ってくれた言葉だった。
 私が無視し続けた言葉に、心に痛みが走る。

 きっと私はこのまま東京に飲まれてしまえば、楽になれるだろう。
 そうなれば、私は大切にしてきた何もかも失ってしまう。
 私は透けていく体の中に残った、小さな欠片を抱きしめる。
 それはとても温かかった。

「私はこの街で生きていきたい」
 そう強く想い、頭の上の糸を掴む。
 そして、それを思いっきり引きちぎり、前へと突っ走った。

 少しづつでいい。
 弱い自分を受け入れていこう。
 東京の街並みは、いつもと変わらずにそこに佇んでいる。

 私はスマホを手に取り、画面を開く。
「いつもありがとう」
 あの人に向けて、たった一言、打ち込んだ。

「今更なんだよ」とか、「急にどうしたの」とか言われるかもしれない。
 でも、そんな心配してるばかりじゃ、私はきっと東京の幽霊になってしまう。

 だから、これは私にとっての小さな一歩になる言葉。
 私は今まで言えなかった言葉を東京の夜空へと送信した。

◆この小説の元にさせて頂いた曲になります↓



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