静 霧一 『眩暈』

 
 真っ暗な部屋の中に、ポツンと僕だけがいた。
 カーテンの微かな隙間から、外の光が漏れ出し、部屋の中に舞う小さな埃を反射させ、ダイヤモンドダストのようにきらきらと輝いている。

 この六畳一間の小さな箱庭を僕は愛していた。
 規律も制限もないこの小さな箱庭は、僕だけの世界そのものであった。
 だが、その自由を与えた神様は僕に呪いをかけたようで、僕をその世界の中でしか生きられないようにしただけでなく、外の世界で生きることを拒絶させた。

 だけれども、そんな僕は独りぼっちが嫌いであった。
 一人でいることは苦でもないのに、独りを感じると、僕の唇が震え、手先が冷たくなり、肺の空気を奪われるような息苦しささえ覚えてしまう。

 それが怖いものだから、僕は小さな液晶画面に助けを求めた。
 仮想空間の中で生きるもう一人の僕を、現実世界で生きる僕の指で自由に泳がせる。
 時折、「辛いよ」と毒を吐き出し、そしてまた僕は果てのない世界を泳ぎ続けた。

 そんなある日、僕は仮想世界の君に出会った。
 アカウント名が「烏の子」なんて変な名前で、最初は年齢も性別もわからなかったけれども、話しているうちに、君は僕と同じ16歳で、女の子だということが分かった。

 お互い時間だけはあり、毎晩のように他愛無い話を続けた。
 そのうち、お互いの心を信頼できるようになり、僕は勇気を振り絞って自分のことを伝えた。

 本名が「佐藤夏樹」だということ、自分が不登校だということ。
 外に出るのが怖いんだと自分が心に抱えた泥水を、かっこ悪く君の前で吐き出した。

 君は、そんな僕の吐き出した泥水をすくい上げたかと思うと、それを飲み込んだ。
 呆気にとられた僕であったが、画面の向こうにいる君は「弱くなんてないよ」と慰めてくれた。
 僕が泥水を吐いた後、君も同じくして、僕に自分自身のことを教えてくれた。

 君は入院中であった。
「骨肉腫」という病気らしく、近々手術があることを僕に教えてくれた。
 君は大したことないよなんて言っていたけど、僕にはその画面上の言葉が震えているようにも見えた。

 画面越しの文字では君に勇気なんて与えられない。
 僕の吐き出した泥水をすすってくれた君に何もお礼なんて出来ていないことを真っ暗な四角い部屋の中で、一人藻掻きながら泣いていた。

 ◆

 子供の頃はよく外ではよく溌剌に遊ぶ子だったと思う。
 本棚の本に押しつぶされた、背面の擦れた古いアルバムの写真を見ると、そこには笑顔の僕が泥だらけになりながら駆け回っている姿が映されていた。

 あの頃は自分の楽しさだけが、世界の全てであった。
 そうして僕はちょっとずつ成長し、次第に他人を理解した。
 そして、世界に楽しさ以外のものが沢山溢れていることを知った。

 それでも、背が伸びていくとともに、好きなものばかりだと思っていた世界に、嫌いなものが好きな色を塗りつぶしていく。
 他人と関わるほどに、色の違う背中ばかりが増えていった。

 僕の口は一つだというのに、言いたいことも言えないことも押し込まれ、もう窒息してしまいそうだ。
 段々と僕の肺に言葉がたまり、息が浅くなっていく。

 夕焼け空の濁った空を見つめながら、僕は眩暈に溺れた。
 きっと、すべてを忘れたくて白昼夢を追い求めていたんだと思う。
 それでも、白昼夢を追うほどに、僕の体は渇きを覚えて、心から大切なものを奪っていった。

 だからこそ、僕は夜に逃げた。
 暗い所へ、ずっと、ずっと。

 そうしてたどり着いたのが、カーテンで仕切られた四角い部屋の中であった。
 それでも僕はどうやらわがままなようで、君と出会ってからそれがさらに加速した。

「君から愛されたいし、君を愛したい」
 僕は小さな画面に涙ながらに呟いた。

 ◆

「今日ね、学校に行ってきたよ」
 僕は画面越しに呟いた。

「行けたんだ!どうだった?」
 君の笑顔が見えたような気がした。

「う、うん。楽しかったよ」
 僕は嘘をついた。
 楽しいはずなんてなかった。

 クラスメイトは僕を忌避するような目で見つめ、先生はひたすらに「大丈夫か?」とだけ問う始末。
 僕にとっては地獄であった。
 それでも、君はもっと痛いのだろう、苦しいのだろう。
 それを思えば、僕の思う地獄などちっぽけなものであった。

「僕も頑張るからさ。君のこと応援したいから」
 画面越しに笑顔を作る。

 小さな嘘を積み重ねていく度に、どうも僕の心は炎症を起こした。
 熱病のように、あくる日もあくる日も君のことを考えて、もはや学校にいる時間など、ふわふわとした心持でいるようになった。

 君が幸せでいてくれるのならそれでいい。
 そんなことを思う僕は、熱の病魔にでも侵されているのだろうか。

 気づけば、僕の眼には君しか映っていなかった。
 会ったこともない君を、僕はどうやら取り留めもなく好きになってしまった。
 君が「私のこと、好きにならないでね。悲しくなるだけだよ」と言っていたのを未だに覚えている。

 心の中で僕は君のことを何度も嫌いになろうとした。
 その度に体がピリピリと痛み出して、肌が痒くて痒くて仕方なかった。
 胸のあたりをぎゅっと抑えるたびに、シャツに皺が寄って、とうとう白いボタンがぽとりと床に落ちた。

 僕は、こんな情けない僕が嫌いだ。

 ◆

「手術、明日なんだ」

 ピコンと通知が光る。
 寂しげな言葉だった。
 僕はその言葉に泣いた。

 君の「骨肉腫」が治れば、それは君にとって嬉しいことなのかもしれない。
 だけども、そうなると僕はいったい、何のために君と居ることになるのだろうか。
 飲みかけた炭酸ジュースの気泡が消えていくみたいに、君との絆が少しづつ溶けていくような気がした。

 病魔に寄り縋った僕は最低だ。
 この不確かな毎日を延命しようとした僕への贖罪なのかもしれない。

 今更になって、僕には羽などついていないことに気が付いた。
 元気になった君は、果たして僕に居場所を求めるだろうか。
 たかだか小さな一歩しか踏み出せない僕のことを、好きだと言ってくれるのだろうか。

 僕は深くため息をついた。
 あれだけ、大人になることを嫌がったのに、今じゃ君のために大人になりたいと願っている。

「頑張ってね、応援してるよ」
 僕は震える指で半分の嘘をついた。

 返信が見たくなくて、そっと画面を閉じて、枕に顔を埋める。
 濡れた涙が気持ち悪くて仕方なかった。

 君の折れた羽に僕の折れた羽を寄り添わせてはいけない。
 きっとそれは体を蝕む猛毒になる。
 
 だから、僕はこの未熟で空も飛べない小さなもう片方の羽で、君を空の彼方へ連れていけるように頑張るよ。
 弱弱しい羽で、僕は君に手を伸ばした。

「あのさ」
「ん?どうしたの夏樹君」
「手術終わったら、君に会いに行ってもいいかな」
「うん。いいよ。夏樹君の想像している私とは違うから驚かないでね」
「楽しみにしてる」

 僕は涙を拭いて笑った。

 ◆

 駅前の花屋で、花束を買った。
 花の名前なんてわからなかったから、黄色とピンクの花束を作ってもらった。
 握りしめた便箋と花束を持った僕は今、君のいる病室へと駆け走っている。
 その姿はまるで、空の広さを知った雛鳥のようであった。

 おわり。



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