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【短編小説】蟻と鳳蝶


「ねぇ、なんでアゲハチョウは捕まると飛べなくなるの?」
 カケルは人差し指と親指でアゲハチョウの両羽を摘まみながらサリの眼前へと突き出した。

「飛べなくなる理由なんて簡単よ」
 サリはそういうと、アゲハチョウの片羽を指で名で、人差し指の腹に虹色の鱗粉をつけた。

「これなに?」
「これはね、"鱗粉"っていうのよ。そうね、お魚さんの鱗みたいなものかしら」

「鱗?硬くないのに?」
「そう、アゲハチョウの鱗は柔らかいのよ。柔らかくて、美しくて、そしてあまりにも脆いの」

 サリは人差し指についた鱗粉を親指で擦り合わせた。
 木々の木漏れ日に照らされ、鱗粉は虹色に反射しながら落ちていく。

「カケルくん。アゲハチョウっていうのはね、羽で飛んでいるわけではないのよ。鱗粉が空気抵抗を減らして、か細い筋力だけで、あれだけ自由に舞っているのよ。それに、鱗粉は雨だって弾くし、異性にだって魅力的に映るものよ。そうね、アゲハチョウにとっては命そのものなのかな」

 カケルは頭を傾げ、ぽかんとした表情となる。

「カケルくん、そのアゲハチョウ、指から離してごらん?」
 カケルは言われた通り、人差し指と親指を離し、アゲハチョウを解放した。

 すると、アゲハチョウは飛翔することなく、螺旋状にくるくると舞い、地面にぽとりと落下する。
 それでもなお、諦めまいと両足で立ち上がり、羽をバタつかせるが、地を這うばかりで一向に飛ぶことができない。

「カケルくん。アゲハチョウは少し鱗粉が取れただけじゃ、飛べないなんてことはないのよ。だけどもね、このアゲハチョウは飛べないの。どうしてだと思う?」

 カケルは顎に手をやり、考え込む。
 そして、何かを思いついたかのような顔をし、自信なさげに弱弱しく口を開いた。

「弱いから……?」
 サリはその答えに微笑む。

「どうして弱いと思う?」
 サリがカケルに顔を近づけ、その答えを待ち望む。
 カケルはさらに聞きこまれることを予想しておらず、思わずサリから顔を逸らしてしまった。

「いじわるしたわけじゃないのよ。ごめんね」
 サリはカケルの頭をポンポンと撫でる。

「弱い……のは正解よ。年老いたと言えばいいのかな?」
「おばあちゃんなの……?」
 カケルは悲しそうにのそりのそりと地を這うアゲハチョウを見つめた。

「そうよ。あのアゲハチョウはおばあちゃんなの。もう鱗粉が枯れきって前に進めないのよ」
 サリは目を細めながら、もの悲しげにアゲハチョウを見つめた。

「カケルくん。あれは人も一緒よ。人もね、骨と筋肉だけじゃ動けないの。誰かを惹きつけるために、自分が動くために鱗粉をまとわせないと生きていけないの」

「僕に鱗粉なんてついてないよ?」
 カケルは自分の細い腕をひたすら触る。

「ふふ、人の鱗粉は目に見えないのよ。そうだなぁ、カケルくんはなにか自慢できることとかある?」

「うーん……。あ、この間の運動会でかけっこ一等賞だったんだ!」
「カケルくんすごいじゃん!それじゃ、それをみんなに自慢した?」

「うん!だって一等賞だもん!」
「うん、一等賞だもんね。それが人の鱗粉よ」

「それが……鱗粉?」

「"見栄"っていえばわかるかな?人は見栄を散らしながら生きているの。散らしてはまた見栄を作って散らしてを繰り返しているのよ。そうじゃないと人は前にも進めないし、だれからも見向きもされない。美しくもないし、可憐でもない。どう?クラスの子に目立たなくて地味な子はいる?」

「うーん。シュウイチくんかなぁ。太ってて、メガネかけてて、ずっと下向いてるの。かけっこなんて一番遅いし、ごもごも言ってて何言ってるかわからないし」

「そうね、君にとっては地味なのかも知れないわね。でもね、彼はいつか羽ばたくために、今は蛹となって鱗粉を放つ準備をしているかもしれないよ?」

「えー、そんなの嘘だよー。あんなやつが僕よりすごいわけないじゃん」
「大人になればわかるわよ。見栄は使えば使うほど、輝く散っていくの。そしてそれは二度と戻ってはこない。自分で見栄を作らなきゃいけなくなるの」

「作るの?見栄を?どうやって?」
「人はね。そうやって嘘を重ねるの」

 アゲハチョウがゆらりゆらりとよよろめきながら歩く。
 すると、ぽつぽつと地面に小さな穴が開いていることにカケルは気付いた。

「ねぇ、あれって」
「あれ?あぁ、あれね。蟻の巣よ」

 小さな穴から黒い頭がひょっこりと顔を出す。
 一匹が一目散に穴から出たかと思うと、もう一匹もう一匹と次々に穴から這い出てきた。

 蟻たちはひょこひょこと触覚を動かしながら、よろめくアゲハチョウのほうへと向かっていく。
 まるで死臭に釣られたハイエナのようだ。

 十数匹の蟻は、「誰が行くんだ誰が行くんだ」と群れを作って話し込んでいる。
 すると、その中の一匹がピョンと群れから抜け出し、アゲハチョウへと突進した。

 案の定、蟻はアゲハチョウの前足に蹴られ、ごろんと腹這いになって転んだ。
 その蟻は腹這いになりながら、足をピクリピクリと動かしながら、どうにか元に戻ろうと足掻き、そして背中を裏返した。

 そしてもう一度突進をし、またひっくり返る。
 なんどかその攻防が続くうちに、アゲハチョウの体力も落ち続け、それを見た他の蟻が、一匹一匹と続き、アゲハチョウの体へと群がった。

 その獰猛な顎で、足を噛み、体を噛み、羽を噛む。
 次第に、アゲハチョウはガクリと膝を落として、痙攣しながら地面に伏せた。

 その姿を遠目で見ていた蟻たちまでもが目を光らせ、アゲハチョウによってたかると、その体は一面の黒に覆われた。
 小さき蟻たちの顎には破片となった鮮やかな羽が啄まれ、他の蟻もそれを横取りするかのようにそれに噛みつき、引っ張り合う。

 そんな惨憺(さんさん)たる光景に、カケルは涙目になりながら絶句した。

「カケルくん。鮮やかすぎる色はね、誰かの餌になってしまうのよ」
 サリは無機質に冷たい声でカケルに言った。

「目立ちすぎちゃ……いけないの……?」
 カケルは弱弱しく答える。

「そういうわけじゃないのよ。鮮やかな色を持つってことはね、それ相応の覚悟と力が必要なの。上辺だけ取り繕っても、いつかそれは誰かの餌になるわ。あんな風にね」

 蟻たちはアゲハチョウを食いつくし、一匹また一匹と巣へと戻っていく。
 もはやそこに残っている物は、"美しかった何か"であった。

「カケルくん。今ここで見たものは誰にも言っちゃいけないよ。カケルくんの心の中にしまっておくんだ」

「どうして?」
「君がこの森を彷徨わないためにさ。決してこれ以上進んではいけないよ」

「うん、わかった」
「いい子ね。それじゃ、向こうのほうに進んでいけばこの森を出られるから、カケルくんは振り向かずに歩いていくんだよ」

 サリはそういうと、東の方角を指さした。
 そこには一本の獣道が続いており、その先には白く小さな光がこちらを手招いていた。

「お姉ちゃんは……?」
 カケルはサリの手をぎゅっと握る。
 サリはその手を優しく包み込み、腰を下ろしてカケルの目線に顔を合わせた。

「お姉ちゃんはこの先には行けないの。ごめんね」
 その手を擦りながら、振りほどく。
 カケルの頭に右手を添えて、慰めるように優しく撫でた。

「また……どっかで会える?」
「いつか、君が私を求めれば会えるわよ」

 カケルは涙目になりながらも無言で頷き、「ありがとう」とサリへ伝えると、光のほうへと駆け出して行った。

「こっちこそありがとう。君は私のようにならないようにね」

 掻き消える声がカケルには微かに聞こえた。
 カケルは思わずその声に後ろを振り向いた。

 森の中に木漏れ日が差し込む。

 アゲハチョウの残骸が淡い光に照らし出され、森の中へと溶けていく。
 近くにあった大きな木の幹から生えた枝には、ぷらんぷらんと縄がぶら下がっていて、そよ風に揺れていた。

 その下には、いくつか白い破片が散らばっていて、木漏れ日が揺れるたびに、それはおはじきのようにきらきらと淡い光を放っていた。

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鳳蝶(あげはちょう):蝶化身 境界を彷徨うもの
蟻(あり):社会的暗示

くれぐれも、鏡に映る自分の姿が"蟻"でないことを祈ります。

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