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泥の雨に咲く、名もなき花の名は

時間なんて、無限にあるものだと思っていた。
未来なんて、永遠に続くものだと思っていた。

別れとは、こんなにも唐突にやってくるものなのだろうか。
虫の知らせなんて信じてなかったけれども、私の頭の中を指で弾かれたような、そんな不意打ちのような感覚がして、ふと、窓の外を見た。

どんよりとした泥のような雲から、濁りの雨が滴る。
それは、私の見知らぬ誰かの哀れみを凝縮させたような雨だった。

「あぁ、この世界のどこかで、また誰かが死んでしまった」
コーヒーを飲みながら読んでいた小説に、そんな一説が書いてあった。
この世界の、どこかの、誰かの旅立ち―――

ふいに、私のスマホが鳴く。
「優也が車に轢かれた。すぐに病院にきて」

世界のどこかで、今日も誰かが死んでいく。
神様はなんて意地悪なのだろうか。
私の好きな人を選ぶなんて―――

「本当に、最後まで優しい子でした」
優也の母親が弔辞を読み上げる。
涙と震えを奥歯で堪え、一つ一つの音をゆっくりと読むその様に、会場からはすすり泣く声が聞こえ始めた。

白と黒だけの式場。
私はこの慣れない空間で一人、現実を呑み込めずに、放心状態のまま座っていた。
式場には百はあろうかという椅子が並べられ、クラスメイト、先生、サッカークラブの一同、近所のおばさんたちが座っている。
皆、どんよりとした表情を浮かべ、あるものは泣き、あるものはハンカチを握りしめ、あるものはため息ばかりをついていた。

私は2列目の右側、最前列に座る親族席に一番近い位置にいる。
そして、私の隣には、見たこともない親子が座っていた。
30代半ばといったところの夫婦だろうか。
親子の真ん中には、背丈が私の腰ほどの男の子が座っていた。

「ねぇ、ママ。お兄ちゃん、なんで起きないの?」
その子供は母親に聞いている。
着慣れない喪服が嫌なのか、お経を聞いている間、ずっともぞもぞと動いていて、とても耳障りだった。
当の母親は、その子供の問いに何かを言おうとしたが、上手く言葉に出来ないせいか、また口を閉じてもごもごとしていた。
するとそれを見ていた父親が、一言、子供に向けて言った。

「いいか、悟。お前はあのお兄ちゃんの分まで生きなきゃいけないんだ。ああいう男にならなきゃいけない。お兄ちゃんはこれから天国に旅立つんだ」
「天国……?」
「そうだ。天国だ」
少年はきょとんとした顔を浮かべていたが、父親の真剣な表情を察したのか、さきほどまでの挙動はなくなり、大人しく椅子に座った。

あぁ、この子か。
私はぐっとハンカチを握りしめた。

この子さえいなければ、優也はまだ生きれたんだ。
この子さえいなければ、優也ともっと遊べたし、もっと話せたし、もっと一緒に入れたかもしれない。
この子さえいなければ、今頃……。
この子さえ、この子さえ……。

私の心の中に黒い渦が現れる。
重くぬめりとした泥のような憎しみが沸々と湧き上がってくる。

「詩織、だめだよ」
優しい声が耳元で聞こえ、ふわりと髪を撫でられた気がした。
その声は、私の好きな優しくて懐かしい声でした。

「優也―――」
私はハンカチに爪を立てる指の力を抜いた。

そうだよね。これじゃあなたまで否定してしまうものね。
ごめん。ごめんね。
私は心の中で何度も呟いた。

告別式の帰り道。
相も変わらず、外はどんよりとした雲に覆われ、泥のような雨が降っていた。

私は赤い傘を差し、とぼとぼと独り、雨の中を歩いている。
この傘は、彼が好きだといった傘だ。
そんな他愛ない言葉でさえ、私にとってはかけがえのないもので、変哲もない傘でさえ、宝物のようになっていた。

優也とは物心つく前からの仲であった。
いわゆる、幼馴染というやつだ。
たまたま家が隣り同士で、よく家族で一緒に遊んだ。
幼稚園も小学校も中学校も一緒だった。
高校の進学は、別々になっちゃうかなって思ったけれど、たまたまなのか一緒の高校を志望して、同じクラスで授業を受けていた。
私はいつからか、彼を好きになっていた。
距離なんて感じなかったはずなのに、好きになればなるほど、私は彼との距離を遠く感じていった。

なんで好きになったんだろう。
たまにそれを思い返すたびに、心が締め付けられるように痛くなる。
高校に入学して、同じクラスになって、私がどぎまぎしながら話すタイミングを伺っていると、他の女子生徒が優也に話しかけていた。
彼はそれを嫌がることなく話をし、途中、楽し気な表情さえ浮かべていた。
その時ほど、彼に失望し、嫉妬し、悲しくなったことはない。
私はこの時初めて、彼が好きなのだと、本気で思った。

彼は誰よりも優しかった。
周りへの気遣いが出来るので、女生徒からは好評で、サッカー部ということもあり、わりとモテていた。
私と話す機会が次第に減ってきたにも関わらず、イベントがあるごとに、私だけへのプレゼントを良くくれた。
彼との距離が縮まらないまま、私は高校2年生へと進級した。
今回ばかりは、さすがに同じクラスにはならず、ますます話す機会が減っていった。

ふと、目の前に大きな水たまりが現れる。
水たまりには、雨の波紋がとめどなく波を打っていた。
水面に映る私の姿は、雨によってゆらゆらと揺れ、輪郭はぼやけている。
待つことしかしないのに、ああでもないこうでもないと屁理屈ばかりを並びたてた、私の姿そのものだ。

いつもそうだった。
彼からの誘いを待つのは、自分の勇気のなさを隠すためだ。
彼からの話を待つのは、自分が傷つくのを怖れたためだ。
自分は傷つきたくないと、彼の動きを待つばかり。
目の前にある水たまりに踏み込む勇気なんてないから、いつも遠回りしてそれを避けていた。
馬鹿じゃないの。本当に私って馬鹿だよ。

私が踏み出せなかったのは、きっと彼との将来がずっと続くものだと盲信していたからだ。
そんな突然、いなくなっちゃうなんて考えもしなかった。

ふと、水たまりにぽとりと何かが落ちる。
それは、彼がくれた白い御守りだった。
私のピアノの発表会のために、わざわざ神社にまで出向いて買ってきてくれたものだったのに、私は大したお礼も出来ずにいた。
だけども、肌身離さずそれを持っていたのは、やっぱりこれは彼がくれた大切なものだったからだ。

優也は、子供を庇って車に轢かれた。
見ず知らずの子供だった。
彼の優しさは、透き通るほどに純粋だった。
それはあまりにも綺麗で―――

彼は、微笑んでいた。
自分にもう未来がないにも関わらず、いつものように微笑んでいたのだ。
あぁ、きっと未練はなかったんだ。
自分の正義を貫いたんだと、その時感じた。

私は水たまりに落ちた御守りを拾いあげる。
その汚れた御守りを握りしめると、ぼちゃんと水たまりに映った自分を踏んだ。

優也に好きだと伝えられなかった。
私にもっと勇気があれば、きっと好きだと言えたのかな。
でも、もうそれも過ぎ去ってしまったことだ。

私は空を見上げる。
きっと、この雨雲の向こうで、私を見ているかもしれない。
前に進む勇気をくれた彼に、私は祈りを捧げた。

「お前は、本当に馬鹿だな」
調子よく、私をからかう声が聞こえたような気がした。
本当に、最後まで優しいんだね。

私は静かに泣いた。
泣きながら笑った。

くるりと赤い傘を回し、制服のスカートが翻る。
それはまるで、泥の雨に咲く、名もなき一輪の花のようであった。


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