吸血鬼ドラキュラ再び神戸に現る

 1979年、夏―まだ震災が来ていない、西洋の風が吹き込んだこの街に、漆黒の闇をまとった哀しき紳士が私に愛を伝えにやって来た。
 でも、私はとても困った。何故なら、好きな人はこの時点で既にいたし、それに、私自身も惑わされてしまったから。あの出来事があったから、私は夫と結ぶ覚悟が出来たのだけれど、本当に怖かった。
 夏が来るたびに、下手をすると、震災よりも……若い頃に出会った、ドラキュラとの記憶が、私を今でも苦しめる。おかげでコウモリと赤色が大嫌いになった。
 それでも、私は今も神様を信じているし、それに夫が守ってくれる。だから、どんなに怖い悪夢を見ても、強くいられる―。

「Yapooニュース 2019年7月●日 15:09 更新
 『神戸の廃ホテルに謎の棺桶発見!ミイラ化した遺体も』
 ☆日午後4時頃、神戸市X区の廃ホテルに、直径約2.5mの棺桶が発見された。
 警察が中身を調べたところ、少なくとも死後数年が経過したと見られる性別不明のミイラ化した遺体が入っており、黒い背広とマントが着せられていたことから、男性の遺体と思われる。
 捜査関係者の話によると、棺桶は外国から密輸された物と思われるが、詳しい詳細は控えるとしている。」

 2019年、夏、神戸。元号が令和へと代わり、季節に関係なく不安定な気象状況に躍らされるだけでなく、時代の変容があまりにも早く、どこか落ち着かないように感じられる。写真も、今や機械にデータとして残すようになったのだから、カタチも何もあったものではない。
 友永光郎はそう思いつつも、目を細めてパソコン画面に集中し、客から頼まれた写メのデータの現像作業に取り掛かる。しかしながら、カタチに残さないだけで、誰しもが目の前に映る光景を記録できるようになったことは良い事だと光郎は思う。パソコン通信の時代から、インターネットには世話になっていて、ブラウザを覗くたびに、若い写真家の技術を見ては、生涯現役を貫かねば、という意識を駆り立ててくれる。カメラマンは常に時経を読むこと―この世界に入ってから最初に教わったことで、同時に光郎が仕事をする上で常に意識をしていることだ。
「まだかかっているみたいね」
 パソコン画面を視界いっぱいにしていると、長年に渡って聞き慣れた声が光郎を現実に引き戻した。振り向くと、そこには妻の絵里子が、興味深そうに画面上の写真をまじまじと見ていた。公園の噴水をバックに、男性と赤ん坊を抱きかかえている女性が幸せそうにはにかんでいる写真だ。
「これ、すごくいいわね」
「あぁ。構図に少し失敗して、僕は撮り直したいと思っているんだけど、先方のご夫婦が気に入ってくれてね」
「そう」
 絵里子が顔をほころばせると、光郎はハッと何かを思い出したかのように、カレンダーを見た。
「ところで、あと何日だっけ?由里が来る日。夏休みの間、しばらくここにいるんだろう?」
 由里というのは、光郎と絵里子の孫で、現在は息子夫婦と一緒に大阪に住んでいる。大阪へのアクセスが容易であることもあり、前は双方で顔を見に行ったり来たりしていたが、由里が成長するに連れて、その回数も減ってしまっていた。
「もう明日よ。一人で来れるようになるなんて、時が経つのは早いわね」
 絵里子が感慨深そうに言うと、光郎もそれに賛同した。
「高校生だもんな。難しい年頃だよ」
「そうね。でも楽しみだわ……お昼ご飯の仕度が整ったから、食べながらにしましょう」
 絵里子にそう促されると、光郎は身体を目一杯伸ばして、一呼吸整え、ゆっくりと椅子から立ち上がり、食卓へ向かった。

「Yapooニュース 2019年7月XX日 9:49 更新
 『「棺桶ミイラ」が消えた!?』
 廃ホテルに放置されていた『棺桶ミイラ』について、兵庫県警○○署内の霊安室に保存していた性別不明のミイラ化した遺体が紛失したという情報が流れた。
 関係筋の話によると、司法解剖のため、担当者が遺体を検死室まで運搬しに霊安室に入った際、既にベッドの上に横たわっておらず、もぬけの殻の状態だったという。床には、振り分けられていたナンバーが書かれたタグやカバーなどが散乱していたという。
 これについて兵庫県警は『コメントを差し控える』としている。」

 7月某日。この日は光郎と絵里子が心から楽しみしていた、愛する孫娘との再会日である。二人は駅の入口広場で由里を出迎えようと待っていた。光郎の首元には、長年愛用している小型のスチルカメラが携えていた。駅の外へ出て来る由里の姿をフィルムに納めようと、敢えて時代に逆行して準備したものだ。
「久しぶりだから、少しドキドキするな」
 光郎は少し照れた様子で苦笑いを浮かべた。
「そんなこと言わないで。普段は離れていても、家族なんだから」
 絵里子は光郎にそう言うと、愛用の腕時計で時間を確認した。
「予定だと11時に着くって言ってたわね」
「あぁ、もうすぐだ」
 そんなやり取りをしていると、駅の入口から紺色のワンピースを着た黒髪のセミロングの少女が大きく手を振り、光郎たちの元へ駆け寄ってきた。
「おじいちゃん!おばあちゃん!久しぶり!」
「由里ちゃん!まぁ、こんなに大きくなって」
 少女―由里は祖母の絵里子に抱きつくと、絵里子はそれに応えるように優しく由里の頭を撫でた。
「参ったなあ、由里があまりに美人さんだから、カメラを構えるのを忘れちゃったよ」
「もう、おじいちゃんったら、今はみんなスマホだよ?」
「そんな事は分かっているさ。だけどおじいちゃんは、このカメラで由里を撮りたかったんだ」
 光郎がそう言うと、由里は楽しそうに笑った。
「あはは、おじいちゃんらしいね。あたしお腹空いちゃったよ。朝ご飯食べないで来たからさぁ」
「まぁいけない子ね。でも折角だから、どこかで食べましょうか」
 絵里子が少し早いランチの提案をすると、由里は目を大きくして喜んだ。
「やった!もうね、おばあちゃん達に色々話したいことがあるんだ!」
「あら、そうなの」
 光郎は、絵里子と由里が話している光景が愛おしくなり、首元のカメラを構え、そのままシャッターを押した。

 駅から少し歩いて、三人は個人経営と思われる小さなカフェに入った。扉の前に『ランチタイムメニュー』と銘打った看板が置かれ、パスタやグラタンなどの洋食ランチセットの名前が書かれている。
「カタカナが多くて、目読みするだけで疲れちゃうわね」
 絵里子が目を細める。
「えー美味しそうじゃん。ねぇおじいちゃん、タピオカミルクティー頼んでいい?」
 由里が光郎に上目遣いを使って駄々をこねる。
「当たり前じゃないか。今日は久しぶりに会えたんだし、好きなもの食べていいぞ」
 と光郎は言った。久しぶりの孫娘と水入らずの時間を過ごすのだから、今日はめいいっぱい甘やかしてやろうと、予め決めていた。
「ところで、学校はどうなんだ」
 光郎が学校生活のことを尋ねると、由里は少し間を置いて言った。
「そうだね、まぁまぁってとこ」
「そうか」
 この年頃は学校のことを言いたくないのだろうか、これが思春期というやつか、こういうのは男が入る隙間がないのかもしれない、と光郎は思った。
 それを感づいたのか、絵里子が間に入る。
「おじいちゃんには話しづらいのでしょう。色々あるものね」
 そう言うと、由里はフフッと笑うと、先程までの爛漫さは消え失せ、目線を下に落として続けた。
「実はね、相談したいことがあって…その、言いづらいんだけど…」
 由里の哀しげな表情が気になり、
「どうしたんだ。話してみなさい」
 と光郎が促した。由里は光郎の顔をチラリと見て、すぐ目線を戻した。

「―あたしね、今、ストーカーに遭ってるの。と言っても、学校の帰りだけなんだけど、友達と別れて一人で家まで歩いている時、すっごく冷たい視線を感じるようになってさ…後ろを振り向くといないの。パパとママに相談して、家の前まで友達に付き添ってもらえと言われて、友達が一緒に歩いてくれるんだけど、最近はそれでも視線を感じるの。でも友達は視線を全く感じないの。でもね、一週間くらい前ね、ストーカーを見つけたの。背広を着た男の人だったんだけど、友達は『どこにもいない』って聞かなくって。学校と警察にも相談したんだけど、目撃情報が他にもないとどうにもできないって…」

「まぁ、かわいそうに…」
 絵里子は由里の肩に優しく手を添えた。続けて光郎が由里に尋ねる。
「ここに来る途中はなんともなかったのか?」
「うん…部活の関係とかで暗くなってから帰ることが多いから、その時だけ」
「部活を休むことはできないのかい?」
「考えたけど、先生が取り合ってくれなくて。ママが学校まで迎えに行くって言ってくれたんだけど、もう高校生だから、これ以上親に迷惑かけたくないし…」
 由里の目線がまた下に落ちる。カランコロンとドアの鈴が鳴り、二人の女性と4,5歳くらいの二人の子供のグループが店内に入ってきた。子供達はワーキャーと騒いでおり、その度に女性達が少し強めの口調でたしなめていた。由里は顔を正面に向けて、お冷を一口入れ、子供連れのグループに目線を変えた。
「あの子達今水落とすと思う」
 由里がそう言うと、店員が4人分のお冷を子供連れグループの席に運ぼうとした矢先、子供の一人が店員の足にぶつかってお冷が入ったグラスが床に落ちた。グラスは割れ、水と破片が散乱した。
「すみません!こら、何やってるの!!あんたも謝りなさい!すみませんうちの子が迷惑をかけてしまって…」
「いえいえ!私の不注意で…」
 別の店員が慌てて掃除用具を持ち出して、床に散らばった破片や水を片付け始める。子供の母親であろう女性がその場で子供を叱責し、ぶつかった子供もまた、号泣しだすなど、店内は騒然となった。
 絵里子は、由里の発言に少し気がかりを覚えた。
「由里ちゃん、あなたそれ…」
「5日前くらいかな…最近予感が当たるようになって。友達に話したら今度占ってってせがまれてるんだよね。評判になったら占い師のバイト始めようかなって…」
「由里ちゃん…」
 絵里子は、由里の『予感』が、かつて自分が経験した、思い出したくもない悪夢に似た前兆になるのではないかと思った。光郎は、絵里子がなぜ困惑しているのかを、僅かながらに察した。

「Yapooニュース 2019年7月XY日 19:04 更新
 『また神戸で失踪事件…家族に行き先を告げてそのまま失踪も』
 今日未明、神戸市の繁華街に訪れていた40代女性と連絡が取れないと通報があった。現在、警察と消防が行方を追っている。
 行方が分からなくなっているのは、神戸市○☓区の飲食店を営む女性で、翌朝になっても帰ってこないことを心配した内縁の夫が通報したという。女性と一緒に店を出た男性店員は『店を出てそのまま別れてしまったので、その後は分からない』と話している。
 XX日には、50代の男性が『ポートアイランドに行ってくる』と家族に告げて外出したのを最後に失踪している他、神戸市内だけで、今月7件もの捜索願が出されている。」

「また、あの事を思い出していたのかい?」
 光郎は、絵里子に問いかけた。
「あの事って、どういう意味?」
「婚約を挙げる、君の誕生日前のことさ―由里の予感の話を聞いた途端の君の表情が只事じゃないなと思ってね」
 光郎はそう言うと、絵里子が身に着けている白の十字架が付いたネックレスに目をやった。絵里子はペンダントトップを手に取り、それをまじまじと視界に映した。
「もう、40年くらい経つかしら。たまに、夢に出てくるの。あの時も確か夏だったわね―」
「……あぁ」
「ねぇあなた、今から私が言うことを、全部笑わないで聞いてくれる?」
 絵里子は光郎の目を見て、物哀しげに微笑んだ。
「なんだか、由里がドラキュラの元へ行きそうな気がするの…」
 光郎は絵里子が今にも泣きそうな表情を見て、優しく諭す。
「まぁ…君が心配になるのも無理はないよ。夢に出てくるくらいのトラウマを残しているからね」
 ドラキュラという名を聞いたのは何十年振りだろうか。あの夏の出来事は忘れていなかったが、協力者がいたとはいえ、40年前にドラキュラを葬り去ったのは、他でもない光郎によるものだった。
「だけど、ドラキュラは僕らの手で葬ったじゃないか」
 光郎の説諭に対して、絵里子は首を横に振って反論した。
「でも、あの時ドラキュラは言ったわ!『私は必ず蘇る』って!もし由里の身に何か起きたら、息子達に合わせる顔がないじゃない!」
「おい、いい加減にしてくれよ。一日中あの暑さの中街を歩いたんだ。少し疲れてるんじゃないのか?」
 絵里子の様子は、普段の姿とは考えられないくらい、血眼になっていた。まるで今から大災害がやって来るといわんばかりの熱量で、光郎に訴えかける。光郎は、絵里子の肩を手にかけて、もう一度諭した。
「いいかい、もうすぐ日が暮れるんだ。これ以上騒ぐと近所から何言われるか分かったもんじゃ―」
「二人とも、何してるの」
 リビングの入口から、由里がひょっこり顔を出してきた。
「あたしちょっとコンビニ行ってくるね」
「由里!もうすぐ日の入りなのに出歩くのは危ないわよ!」
「大丈夫だよ、近くのところへ行くだけだし。それにスマホもあるから、危なくなったらおじいちゃんのスマホにすぐLINEするよ」
 由里はそう言ってはにかむと、光郎は荒くなりつつあった呼吸を整えた。
「………気をつけて行ってきなさい」
 外へ出ていく由里を見る光郎をよそに、絵里子は、椅子に身体の力が抜けたようにだらんと座り、頭を抱えた。

「まだ夕方なのに、心配性だなぁ」
 由里はコンビニの冷ケースを前に、ぼそりと呟いた。冷ケースの扉に映っている自分の姿を見るたびに、また『予感』がひらめいてしまったらどうしよう、と、頭をよぎる。祖父母が口論していたのは、間違いなく自分のことである。大阪にいると、いつストーカーが家にやってくるかも分からないから神戸の祖父母宅に身を寄せたのに、自分が来たせいで祖父と祖母の関係がギクシャクしてしまうのは、とても見ていられなかった。だから、コンビニに逃げることで、何とか心を平穏に保とうとする。
 由里は思考を巡らせながら、カルピスソーダを手に取り、レジに向かう。そろそろ祖父母宅に戻らねばならない時間であったが、まだ不穏な空気が残っていそうだと感じたので、会計を済ませて、すぐ近くの公園へ行った。空に太陽は消え失せ、薄暗い青色が覆っている。もうすぐ完全に暗くなる。さっさとチキンとソーダを片付けようと、由里はベンチに座り、スマホを片手にそれらを頬張りながら、50件以上溜まっていたLINE通知に既読を付ける。その中で、友達登録していたニュースサイトに『棺桶ミイラ』に関する見出しを見つけ、それをタップして記事を読んだ。
「ミイラを見つけた人も行方不明か…」
 由里は、どうも『棺桶ミイラ』について引っかかっていた。根拠は特にないが、ここ2、3日、それが自分と縁があるのではないかと感じた。
 由里が座っているベンチの400m先の樹木にセミが止まっている。寿命が尽きたのか、セミはひゅるひゅると地面に落ちた。この瞬間を待っていたかのように、どこから現れたのか、カラスの大群がそれをめがけて一斉に飛びかかった。
「弱いモノを食べないと生きていけない。むごいけど、現実なんだよね…」
 由里はそう呟くと、残りのチキンをそのまま口に入れ咀嚼したのち、ソーダでそれを食道にそのまま流し込んだ。たった一つの抜け殻を、一生懸命貪り食らうカラスたちの姿を見て、あぁはなりたくないと思った。しかし、過酷なスクールカーストを生き抜くためには、そうするしかないことも分かっていた。
 もう一度ソーダを飲もうと、由里がペットボトルに口を付けようとした矢先、どこからか男の声が聞こえた。
「その通り。蝶は花の蜜を奪い、ヒトは牛や魚の肉を食べる―残るのは、無残な死体だけです」
 夜風が身体に当たる。ここ数年は熱風が吹いていたが、この時だけはひんやりと冷たい風であった。由里はその声に反応するように後ろに振り向くも、声の主はいない。まさか、ストーカーが神戸まで付けてきたのではと感じた由里は、祖父の光郎のトーク画面を開いた。しかし、身体が硬直して上手く文字が打てない。
 『助けて』と打とうとした矢先、赤いマントを羽織った背広姿の紳士が由里の目の前に現れ、由里の左手を乱暴に持ち上げ、反動で持っていたスマホが地面に落ちた。
「あなたは、エリカの血を受け継ぐ者ですね?」
 突然現れた紳士を前に、由里は訳が分からなくなった。
「いやっ…助けて!!誰か!!!」
「無駄ですよ。他の者には私の姿は見えないはずですから―あなたは、何かに付けられている恐怖から逃げるように、祖父母がいる神戸にやって来た。夜にしか付けられていないのに、いつエスカレートするか分からないと、ご両親が背中を押した。そもそも、なぜ夜にしか付けられなかったのか、考えたことはないかね?」
 紳士は、由里の事を既知しているように言った。由里はそれが不気味に感じて、紳士の手を解こうと必死にもがいた。
「それはあなたを付けた者が夜の生き物だからですよ…お祖母様から聞いたことはないかね。この私、ドラキュラの名を…」
「ドラキュラ…?何を言って…」
 由里は、ドラキュラと名乗る紳士の言葉に困惑しているうちに気が遠くなり、その場に倒れ込んだ。
「ユリ…やっと逢えた…」
 ドラキュラは気絶した由里をそのまま抱きかかえて、どこかへ消えてしまった。
 地面に落ちた由里のスマホには、光郎宛に『たし』と書かれた、未送信のメッセージが残されていた。

「ねぇ、一人で行かせるのはまずかったんじゃない?」
 絵里子は光郎に問いかけた。時計の短針は8時を指しており、外もすっかり暗くなっている。
「もうこんな時間なのに戻らないのはおかしいわよ」
 絵里子の言う通り、たかがコンビニに出かけただけでこんなにも時間がかかるのはありえない。友達に会うといっても、神戸は由里のホームグラウンドではない。だがSNSが普及しているこの時代で、光郎や絵里子、由里の両親―つまり光郎と絵里子の息子夫婦―の目を盗んで、秘密裏に会っている可能性は否定できなかった。だからこそ、コンビニから一向に帰ってこない由里を、絵里子はとても心配していた。
 光郎はスマホを取り出し、ロック画面を解除すると、息子からLINEが来ていた。
『由里の携帯のGPSがこの公園で止まってるんだけど何かあった?』
 そのメッセージと共に、由里の携帯があると思われる公園の地図画像が送られていた。その場所は、光郎もよく知っている近所の公園だった。
 光郎は慌てて由里の携帯に電話をかけた。スマホのスピーカーからは呼び出し音が一定のリズムで鳴り続ける。光郎は「早く出てくれ」と内心焦りながら呼び出し音を聞き続けた。呼び出し音が途切れ、機械的な女性音声が光郎の耳に入った。
『ただいま、電話に出ることができません』
 とうとう、由里は電話に出なかった。光郎は絵里子に「出かけてくるよ」と言い、由里がいると思われる公園へ向かった。

 由里が目を覚ますと、見知らぬ光景が視界に映った。暗色がかった赤い壁、年季の入ったアンティークインテリア、ほこりがかった蝋燭台―まるで西洋の古屋敷の部屋そのものだった。
「すごい、インスタ映えしそう」
 と、第一印象を独りで呟き、アンティークグッズを観察し始めた。小さい頃から、祖父母が震災前の神戸の街並みについて、アルバムに納めた写真を見せながらよく語ってくれた。昔の元町商店街には、ヨーロッパから直輸入した雑貨を取り扱う店がとても多かったこと、公園の白い大きな噴水の前で祖父にプロポーズされたこと、お洒落な洋館が沢山建っていたことなど、挙げ出すときりがない。
 ただ、一枚だけ、あの祖父が撮ったとは思えない写真があった。あれは年長の頃だっただろうか。一人で写真アルバムを眺めている時に、どこかの洋館の前で祖父が撮ったと思われるモノクロ写真を見つけた。写真には半透明ではあったが般若のような『怖いバケモノ』が不気味に写っていた。まだ幼かった由里はその写真を見た途端、アルバムをピシャリと閉じ、祖父の光郎に泣きついた。以来、アルバムは一度も見ていない。当然、あの写真を見たのも一度きりだ。
 気がつくと由里は、部屋中のアンティークグッズを撮影したい衝動に駆られていた。スマホを取ろうとポケットに手を伸ばす。しかし、あるはずのスマホが入っていない。
「えっ…!?」
 そういえば、ここはどこなのだろうか。どうして見知らぬ部屋にいるのだろうか。
(―あたしは公園で何をしていたんだっけ?)
 由里の記憶は公園で途切れていた。チキンを食べて、セミを食べるカラスの群れに自分を重ね、男の声に振り向いて―、そこから先は記憶が完全に抜け落ちていた。
 きっと、あの公園で落としたに違いない。由里はそう確信した。
(とにかく、スマホを探しにここから出ないと)
 由里は部屋のドアノブを手にかけた。焦りのあまり、乱暴に早く、思い切りドアを開いてしまった。
 ドアの向こう側には、マントを羽織った背広の背の高い紳士が由里を待っていたかのように立ち構えていた。

 光郎は、由里の携帯GPSが探知した公園で、キョロキョロと見渡しながら名前を呼んだ。
「由里!」
 自宅を出て猛ダッシュで来たからか、ゼエゼエと息が上がっている。近年の夏の夜特有の生ぬるい風が光郎の老体に鞭を打つ。光郎はどことなく気持ち悪さを覚えつつ、愛する孫を見つけるために、園内を歩き廻る。
 園内には光郎以外の人はいなかった。無人のブランコがぎこちなく揺れる。どこからともなく聞こえる虫の音が光郎の耳を劈く。それでも、光郎は由里の名前を呼び続ける。
「由里!聞こえているなら返事をしてくれ!おばあちゃん達が心配しているよ!」
 焦りと苛立ちが奥底から湧き出てくるのに比例して由里を呼ぶ声も大きくなる。
「由里、頼むよ、返事をしてくれよ…由里!!」
 何周公園を廻っただろうか。由里は一向に姿を現さない。光郎は孫を失った絶望感にうなだれて、そのままベンチに腰をかけた。
 息子夫婦になんと言えばいいのだろう。妻の言うことが半分現実になってしまうとは。光郎は力なく口元だけで苦笑し、もう一度由里を探そうとベンチから立ち上がった。
 絶望から来る倦怠感を身体全体にまとい、重い足で地面を歩く。わけもなく砂場を歩くと、カツン、と、硬いモノが足に当たった。
 光郎は足に当たったモノを確認しようと身体をしゃがむ。硬いモノは白いスマートフォンだった。それも光郎がよく見ていた個体―由里のスマホだった。
「由里…!」
 光郎は由里のスマホを手に取り、孫をこの手で見つけ出せなかった後悔の念に顔を歪ませた。
 どうしよう、息子に合わせる顔がない。警察に届けを出そうか?いや、まだ近くにいるはずだ。それに、妻に情報を共有しないまま事を進めてしまうとかえって混乱を招く。ただ、あの機嫌ではパニックになることは確かだ。
「どうすればいいんだ…」
 光郎は、視界に映している砂場が何も映っていないかのように、目を固まらせた。そのうち、息が苦しくなり、そのまま砂場に蹲った。
「由里…!由里……!!」
 頭の中は由里でいっぱいになった。愛する孫を見つけ出せなかった無力感が襲う。身体が訳もなく震え出し、心なしか、寒気も覚えた。

 いい加減にしよう。大の大人がみっともない姿を晒してどうするんだ。そうだ、一旦家へ帰ろう。妻に―絵里子さんに話さないと。警察へ行くのはそれからだ。さぁ、家に帰らなければ。

 光郎は、蹲った身体を起き上がらせようとするも、なかなか力が入らず、起き上がろうとしてもすぐにバタリと倒れてしまう。とうとう、身体に力が抜け、視界も少しずつ暗くなり始めた。
(僕は…どうしたっていうんだ…)
 自らの寿命が尽きようとしているのか、という考えはしたくない。だが、歳も歳だし、嫌でも頭によぎる。しかしこれは、あまりにも突然すぎるのではないだろうかとさえ思った。
 死にたくない。薄れゆく意識の中で、光郎は思った。セミの音が、金切り声の如く力強く鳴いている。不快な高音が、光郎の身体を蹂躙する。光郎は耳を塞ぎたい衝動に駆られるも、腕に力が入らない。

 これは天使の声なのか?お迎えというのは、こうもうるさいものなのか。否、僕は死にたくない。死ぬもんか。頼むから起き上がらせてくれよ。孫を、由里を探さないといけないんだ。

 光郎は、僅かな力を振り絞って歯を食いしばった。金切り声はワンワンと強くなっていく。超音波のような音から、男の声がかすかに小さく聞こえてきた。

「…………か………わ…しを………た…とこ…よ……………」

「お…………な……たし……お………お…………………………」

 突然、光郎の身体がグサっと刺される感触に見舞われた。蜂に刺されたかのように、首筋がヒリヒリする。
 光郎は、柄にもなくうるさい金切り声に耳を澄ました。集中して不快な音を聞き取った刹那、視界が真っ暗になった。

「―――!!…………、なた…!…あなた!」
 よく聞き慣れた声に呼ばれて、光郎は目を覚ました。視界は打って変わって、白い天井を映している。
「あなた!」
 声のする方向に目をやると、絵里子が今にも泣きそうな表情でこちらを見ている。周りを見渡し、己に繋がれた点滴を見て始めて、自分の立ち位置とここがどこなのかを把握した。
「よかった…!昨日出ていったきりで戻らないから心配したのよ。でも…」
 絵里子が何かを言おうとした矢先、ドアをノックする音がした。間髪入れずに白衣姿の男性が病室に現れた。
「気が付きましたか」
 医者が光郎に声をかける。白衣を纏っているにも関わらず、言い方がとてもぶっきらぼうで、心配している素振りは全く見せていなかった。むしろ、早く出て行ってくれと言わんばかりの表情でこちらを見ている。
「この方が倒れているあなたを見つけたんですって。見つけてくださった方が病院の先生で本当に良かったわよ」
 絵里子の言葉に光郎は耳を疑う。すると医者がぶっきらぼうにこう言い放った。
「医者の性ってやつですよ、奥さん。公園でぶっ倒れている旦那さんが悪い」
 光郎の勘は当たった。
「なんだよ君…まるで倒れていた僕が悪いみたいじゃないか」
「いやだから、倒れていたあんたが悪いんですよ」
 医者は光郎の意見を耳に貸さず、持論を展開した。
「せっかくの休みなのに人が倒れているもんだから治療をした。医者なのでね。それだけで俺の休みは台無しになってしまったんだ。ただでさえ行方不明者が続出しているのに、年寄りが一人で出歩くのが悪いんですよ」
 医者の身勝手な意見に対して、光郎は思わず反論した。
「さっきから聞いていれば、僕一人だけが悪いみたいじゃないか!」
「落ち着いてあなた。由里ちゃんがまだ戻っていないのよ」
 絵里子が間を入ってそれを告げると、光郎はさらに落ち着かなくなった。
「由里が……あぁそうだ、由里を、由里を探さないと!!」
 光郎は興奮気味になり、ベッドから飛び起きようとすると、いきなり身体の力が抜けた。
「無理もないですよ。回復していないんだ。お孫さんも神隠しの仲間入りになったんでしょうね」
 医者は光郎に嫌味を言い、そのまま病室を去った。光郎は絵里子に愚痴をこぼす。

「なんなんだ、あの医者…」
「まぁそう言わないで。この病院、先生一人でまわしているらしいから忙しくしていたんでしょう」
「でも、いくらなんでもあの態度じゃ患者という患者は来ないと思うね…警察には?」
「まだ届けてないわ」
「そうか…公園で由里の携帯が落ちてたんだよ」
 光郎は昨晩の公園の様子を語り始めた。
「拾おうとしたら、いきなり身体の力が抜けて、いよいよお迎えが来たのかと思った。目に映っている全てのモノが少しずつ暗くなって、それに比例して、セミの鳴き声がうるさくなるんだよ。セミの声はだんだんと強くなっていって、終いには人の声に変わった。男の声だったかな。何を言っているんだか分からなかったから、集中して聞いたんだ。とても、非現実的なんだけどもね」
 絵里子は光郎の話を相槌を打たずに、じっと聞いた。『非現実的なこと』は既に経験済みであった絵里子は、一点だけ光郎に質問した。
「なんて言ってたの?」
 絵里子の質問に対し、光郎は金切り声のことを思い出そうとする。二分ほど間が空き、金切り声が発した言葉をゆっくりと口に出した。

「愚かだな、私を倒した男よ」

 公園で聴いた金切り声は、一般的なセミの鳴き声とは大きく違っていた。あの時聴いた音は、セミというより、コウモリだった。それも、まるで大量のコウモリが何かに向かって威嚇しているような、キーキー、という鳴き声に近いものである。キーキー声は感度の強いメガホンを経由するように光郎の頭を揺さぶった。超音波に紛れて、地面を揺さぶるような低音が声となって響いた。

 光郎は、若い頃の忌まわしい記憶が微かによぎった。まだ結婚する前、40年前に起こった、とても忌まわしい出来事である。あの時もまた、コウモリが飛び交ったのが二度もあった。一度目は、教会で絵里子を宥めた際に、二度目は、化け物の心臓に釘を打つ時だ。
 二度あることは三度ある―光郎はそう思ったが、すぐにそれを頭の外へ追いやった。

「私は、必ず蘇る!!」

 ドラキュラが最期に発した言葉が頭によぎる。加えて、由里のストーカー被害と失踪、絵里子の心配―信じたくないが、点と線が結びついた。

「君の心配は正しかったよ」
 光郎は絵里子の心配を初めて肯定した。絵里子は光郎が言わんとしていることを察知し、そのまま俯いた。

「どこへ行くんだね?」
 紳士は、冷たい笑みを浮かべて訪ねた。由里は、根拠のない恐怖感を覚えて身体が固まるも、やっとの思いで視線を顔に合わせた。目の前にいたのは、上品な清潔感が漂う壮年の男性―肌が青く透き通っていて生気が感じられないが、西洋かぶれの気品さが強く感じられる。それらが上手い具合に同居しているので、余計に不気味に感じた。
「そんなに怖がることはない」
 由里の肩にそっと手を添える紳士。しかし、体温は全く感じられない。本当にこの世に生を受けているモノなのか?と由里は思った。今度は彼の目に視線をやると、それは血に飢えた獣のように赤々と猛けていた。
 しかし由里は、紳士がどんな人物であれ、これ以上屋敷に長居する理由はなかった。時間も時間ならば祖父母が心配しているに違いない。おまけにスマホがない今、GPSで両親に場所を把握されているから絶対に何かあったと思われている。早いところ、スマホを回収して祖父母の家に戻らなければならない。だが、ただ単に「帰ります」と言えば良いだけなのに、紳士の存在感が話す勇気をためらわせる。でも言わなければ!
「あの…」
 帰りたい旨を口にした瞬間、突然由里の身体の力が抜け、そのままバタリと倒れてしまった。
 屋敷の外は夜が明けるのを止めているかのように、暗い群青に染まっていた。

 光郎は、仰向けで目をつぶって必死に考えた。どうして自らの手で始末した化物が再び神戸に現れたのだろうか?
 瞼の裏で、若かりし頃の血に濡れた記憶が目まぐるしく映る。壮年の男が杭を打ち付けている。打ち付ける音と比例するように、男の断末魔が夜の廃墟に響き渡った。光郎は棺の中を覗き込むと、ヨーロッパ調の背広を着こなした紳士が横たわっていた。紳士の肌は、青白く透き通っていた。彼の身を包む胴体には鮮紅の血溜まりが作られた。
 やがて断末魔は終わりを迎え、青白い紳士は息絶えた。しかし光郎は個の目で見た。彼の右胸が、普通の人間ならば絶対に在りはしない物―心臓が、ドクン…ドクン…と、しっかり脈だっていることを。
 光郎はすかさず叫んだ。
「先生!あれ…」
 先生と呼ばれた杭を打った男は紳士の右胸に耳をそばだてた。
 ドクン……ドクン……ドクン……ドクン……!!
「…まだ生きてるか……」
 先生がそうつぶやいた刹那、5、6匹の赤コウモリが二人の行為を妨害した。光郎はコウモリに向かって拳銃を数発ぶっ放した。それでもコウモリ達はひるまず、荒々しく羽根をはたたかせる。手で払いのけようとしても、一向に減る気配はなかった。
 コウモリ達はいつの間にか倍以上の軍勢を為していた。光郎はそのうちの1匹に腕を噛まれた。傷跡がポツンと2つ並び、血が滴り落ちる。とくとくと流れる血に反応したのか、赤色の小動物達は一斉に光郎の身体めがけて牙を向いた。
「うわあぁぁあああ!!!!」
 視界は、赤から黒へと素早く変わった。

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