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「お菓子をください」

 今日の渋谷はいつも以上に人ならざる者たちでごった返していた。
 ほんの十数年前は普通の人間しかいなかった。ビルに映し出されるはドギツイ色光の映像、何を言っているか分からない話し声―それらは皆、全く昔と変わらない。唯一違うとすれば、すれ違う人々の格好がピエロのように奇抜だった。

「仮装をして街へ繰り出そう!」

 いつ、どこで、誰が言ったのかは分からない。気がついたら仮装して街を練り歩くのが当たり前になっていた。
『今日は普通に過ごしてはいけない日』『年に一度、いたずらをしていい日』―そんなものなんてすぐに廃れると思っていた。何故なら、本当にいたずらして良い訳がないからだ。
 しかし、一度刷り込まれた風習は恐ろしいものである。数年前、とある取り決めがなされた。以降、人々は対価を求めて街を彷徨い始めた。最初は偶発的に集団徘徊が発生した程度だった。しかし今や全国各地、それもたった一日だけ、奇抜な格好をして徘徊する。ある者は白塗りで、またある者は血まみれになって、さらにある者は肉体を腐らせてまで道路を占拠する。傍から見ると滑稽そのものとしか思えなかった。

 その集団を横目に駅に向かう。すると、爪が剥がれた長い髪の女がどこからともなく現れた。

 女は言う。

「すみません、アレを…アレを、いただけませんか」

 ガラガラ声で物を乞う女。口元から長く放置した油汚れに似た匂いが漂う。よく見ると左手には500mlのチューハイが握られていた。中身は空なのか、缶がグシャっと潰れている。

「アレがないと駄目なんです…お願いします……アレを…お菓子を……お菓子をください」

 受け答えをしてはいけない。まして物乞いの化け物に構うほど、人は暇ではないのだ。

 まもなく、スクランブル交差点に差し掛かる。信号は赤だった。
 向かいの道路で、猫耳をかぶったギャルがチャラ男相手に色仕掛けをしている。彼女のファッションは今どき珍しいへそ出しルックのカットソーと太ももがたわわに出ているミニスカート。全身黒ずくめでアンダーバストギリギリに攻めたスタイルはいかにも一昔前に流行った、所詮平成レトロの産物だった。

「トリックオアトリート!! お菓子くれないとイタズラしちゃうよ~」
「えぇ~どうしよっかなぁ…かわいいじゃん」
「ねぇ~、お菓子にする? いたずらしちゃう? どっちにする~?」
「う~~~~ん、じゃあ今日は…いたずらしちゃおっか……な………」

 信号が青に変わった。
 チャラ男のゲスな笑い声は、人混みの中に消えた。
 平成レトロな黒猫女はさも満足そうに唇をペロリと舐め取り、そのまま人混みの中へ消えてしまった。

「お菓子をください…お菓子をください……」

 長髪女は相変わらずピッタリ隣にくっついて来る。
 なんだか居たたまれなくなって、思わずカバンから清涼菓子を取り出した。ケースから一個それを取り出し女に渡すと、足早にその場から離れた。

「ありがとうございます…ありがとうございます…」
 女は愛おしそうに小さな一粒を眺め、口に入れた。

 人混みの密が最高潮に達した。掻き分けても掻き分けても人・人・人―一向に駅に付く気配はない。
 何とか肉の波から出ることができた。小さな明かりがポツポツ照る路地裏に来てしまったが、場末の独特な雰囲気がかえって落ち着きを与えてくれた。
 ここを真っ直ぐ行けば別の駅に出る、ようやく帰れる―その時だった。

「トリックオアトリート! オカシアゲタカラ今度ハモラウ側デスネ!」

 機械のような声がした方へ振り向いた。
 そこから先は、何も覚えていない。

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