ディベートは軽信を産む
三つ子の魂百まで…と言われる。
子どもの成長を辿ると体感的に多分ホントのことだと確信を得てしまう。
まずは自分自身もそうだったのだろうと。
人は後天的に得られることも多いから、ずっと3歳児のように振る舞えるわけでもない。
上手く表現できないが、持って生まれた核の周りを「理」なる後天的に学んだベールで包まれているのが人なるものかなと思う。
たまに「私はこういう人だから仕方がない」と言い訳する場面を見る。
状況にも依るが、明らかに非礼であることを開き直ってその台詞を口にする場面を見ると、呆れるくらい頭の悪い人だと感心してしまう。
要は理ではなく、間違った私自身を認めよ…という傲慢を主張しているだけである。
例えば、家族内のことなら、それも愛憎の範疇かなと微笑んで済ますことかもしれないが、たまにオフィシャルな場面で堂々とこの手の言い訳をする方に出会うと、もう一度幼稚園から社会の在り方を学び直すことをお勧めしたくなる。
もう一つ厄介な方は、これをヒューマニズムに置き換えて自己弁護する。「人間だから仕方ないでしょ」と。
知恵の使い方を根底から間違えてしまった残念な方である。
これは私がディベートを好まない理由でもあるのだが、間違ったことを堂々と言うと、さもそれが正しく聞こえて納得してしまう人が少なからずいる。
いわゆる「軽信」というもの。
この軽信は実に厄介で、ほんの小さな雪の塊が、この軽信を重ねて行って、大きな雪崩に変わる場面を最近の世の中で嫌というほど見ている。
イメージが良いから…とか、何となく…とか、まるで朝に飲む紅茶の種類を選ぶみたいに、大切なことを軽信で決めるとロクなことがない。
今の政治屋さんを見てれば、論より証拠でしょうよ。