衣食足りて礼節を知る

若い頃、この言葉はイマイチピンと来なかった。

事実、経済的に恵まれなくても人格的に立派な人は居るし、逆にカネはあってもまったく尊敬できない人も居る。

その感覚は変わらないけれども、この言葉は多分、世の真理ではないかと思うようにもなった。

レトリックを駆使すれば、余計にこの言葉は事実ではないとされてしまうのだが、自身を含めた凡庸な人は、多分事実である。

少年法ができた経緯によく使われる例がある。

腹が減って飢えそうになり、どうしようもなくて人の物を盗んで食べた…これは罪と言えど、大目に見るべきではないか。

確かに法の精神からは整合性がある。

食べ物に事欠いては、生存権そのものを侵されるからだ。やむを得ず…緊急避難的な解釈も可能かもしれない。

ただこれは1945年の終戦直後の想定。少し前までの日本なら、食えなくて困る人は敢えて積極的に働かない場合を除いては、そんなにいないだろうと思っていた。

でも、ここ30年ほどの経済的停滞はかなり深刻化している。

自己実現のために働く…なんて悠長なことは言えず、ただ生きるためだけに働く人は確実に増えたのではないだろうか。

自身に置き換えてみればわかる。

腹が減って死にそうな時に、自分が年長者や目上より先に食べてはいけないと、食べ始めの順番を気にする人がどれだけいるのだろうか。

腹を空かせた他人の子どもに自分の食べ物を振る舞えるだろうか。

自身がある程度満足できているから、人のことも考えられる、マナーにも気を配れる、これは残念ながら、多くの人の真理ではないのだろうか。

日本全体がずっと貧困化に向かっている。礼節どころか、信じ難い治安の低下がこれからの世間の懸案になるのは間違いないだろう。

礼節の優先順位はそんな程度である。

罪の無い大多数を貧乏に追いやるビジネスの罪深さを心から憎む。