恥じる大人
人に与える印象=イメージは善いと総じて得をすることが多いと言う。
要は、手続き無しで人の信用を得られるからではないかと思う。
ただ、よくよく考えると「印象」ほど、人のフェアな判断を妨げるものは無いと思う。
印象が常に実情を反映する訳ではない。
自身に当てはめてみても、最初は悪印象でも好人物はいるし逆に見掛け倒しもいる。
人同士なんて、どんなに近い関係でもお互いをすべて知り合うなんて不可能だ。
だから人と人の隙間を、印象や類推から推し量る想像、予測で埋める。日常生活レベルならイメージという尺度になる。
自分が知って決めたイメージならともかく、人の作ったイメージを丸呑みして判断基準にはしないようにしている。
狡猾な人の中には、自分の好き嫌いだけで人にレッテル貼りをする輩がいる。悪意あるメディアは得意の切り取り作戦で、人をヒーローにでも、極悪人にでも仕立て上げることは容易い。
わざわざ狡猾な仕掛けに乗らなくても好き嫌いくらい自分の眼で確かめたらいいだけのこと。もしくは、自分自身がすべてを見聞きして判断した訳ではないことを含んでいることなのだろう。
確かに美しいもの、可愛いものについ靡いてしまう気持ちは分かるのだが、自身の判断基準すべてが、そんなふわふわしたものでは、思慮分別の無さを曝け出すことになる。
それを恥じるのが、人としての分別というものだろう。