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母語の大切さ

私は時々、怖くなる。フランス在住2年目。フランス語の勉強は6年目になる。日常会話で困ることはないし、大学の授業も全てフランス語で受けている。仕事場フランスの同僚と問題なくコミュニケーションができる。彼氏もフランス人で、会話はほとんどフランス語だ。

しかし

フランス語はは私の母語ではない。その言語でずっと話していると、思考が制限されているような感覚になってしまう。ジョージオーウェルの名作、「1984年」では、言語の削減を目標として、ニュースピークが開発された。ニュースピークは、言語数を削ることによって、思考を制限することを目標としていた。私は母語ではない言語を喋る時、ニュースピークを話す感覚になる。制限されている感覚。思考が浅くなっていくような気がして怖いのだ。日本語をしていた時にしていた思考を、フランス語で話すときに同じようにできないというのは、恐怖なのだ。そして知らず知らずのうちに、日本に住んでいた時にしていた思考ができなくなってしまうのではないかと怖くなるのだ。長く住めば済むほど、その感覚は増大していく。私は2年目になるが、日本語が下手になっていく感覚が常にある。だから、それに抵抗するように、日本語で本を読む。偉大な作家たちは、如何にしてここまで言語で伝えることに長けているのか。外国語を学ぶと時々母語の素晴らしさに感動するのだ。私には、同じように表現するのは不可能だろう。文章を書くというのは、これほどまでに難しい。言語というものはこれほどまでに複雑なのだ。

フランス語をもっと学べばいいのだ。私の主張は、学びを怠っているものの戯言に聞こえるのかもしれない。事実、そうである。もっとフランス語を探求していけば、いつか母語と同じレベルで表現ができるようになるかもしれない。
その一方で、学習言語のレベルはいつまで経っても母語のそれには追いつけないのではないかという気がする。同じスピードで思考し、書き、聞き取り、理解することは、果たして可能なのだろうか。母語のような少しのニュアンスの違いを感じ、作者の独特な言い回しに心を揺さぶられることはできるのだろうか。。。
もちろん、人によって状況は違うだろうし、バイリンガルは同じようなレベルで思考ができるのだと思う。幼い時から学習を始めた人はこのような溝も少ないのかもしれない。でも、少なくとも私のような大学生になって新しく言語を学び始めた者にとっては、学習言語を自身のアイデンティティとして受け入れることができない。少しの距離がある。母語のような愛情を抱くことができない。母語のようにリラックスができず、学習言語と私には緊張関係があるのだ。。。。

母語を慈しむ心が、海外に来て一層花開いている。他者であることで見える景色なのか。

きら⭐️


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