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掌編小説【柘植の櫛】

お題「椿油」

「柘植の櫛」

夢を見た。二年前の出来事だ。
中二の夏休み。私は留守番をしながらスイカを食べている。電話が鳴り、出ると母の声がする。
夢の中では言葉は聞こえない。声だけが伝わってくる。
食べかけのスイカのせいで、私は「ふう」とも「うん」ともつかない返事をする。
セミが激しく鳴き始め、母の声が聞こえなくなる。スイカの欠片を無理やり飲み込む。喉がゴクンと大きく鳴る。受話器を握る手が冷たい。

目が覚めた。
激しいセミの声が汗とともに全身にまとわりついて、夢の続きかと思ったが違った。
台所に行くと母が座って髪を梳いていた。こんなに長かったかな、と思った。いつも後ろで団子にまとめているから気づかなかった。
「やっと起きたの」母が私の気配に気づく。
「うん」
「夏休みだからって」
「髪、伸びたね」私は話を逸らした。
「重くなったからそろそろバッサリしようかと思って。今日切りに行くわ」
「なんかもったいないね」
「肩こっちゃうのよね、長いと」
母はそういうと、はぁ疲れたと言って手を膝の上に降ろした。脱力した背中に黒髪が滝のように流れている。中には白く光るものも幾筋かある。
「切る前に私にも梳かせて」母は黙って私に櫛を渡した。
「こんなの持ってた?きれいだね。すべすべしてる」
「柘植の櫛よ。ずーっと前に…使うの忘れてしまい込んでた」
母は頭を少し持ち上げ、すうっと息を吸った。
「あんた使っていいわよ。私はもう短くしちゃうから。お手入れする時、椿油を塗るといいんだって」
母の髪を手にとって、ゆっくりと梳き始めた。櫛はどこにも引っかからずにスルスルとすべる。もう長い時間梳いていたのだろう。髪全体がツヤツヤと光っている。私は黙って髪を梳き続けた。
「人にしてもらうの、いい気持ちね」
「長いままでもいいのに」
私は美しいものが損なわれるさみしさに鼻の奥がツンとして、でも鼻をすするのは憚られて少し上を向いてまた髪を梳き続けた。
「いいのよ、もう」
随分経ってから母は答えた。そして何も言わずに振り返って私の手から櫛を取ると、少し手の中であそばせてからおもむろに私に返した。
その瞬間私は思い出した。二年半前、雪が降りそうに寒い日曜日の夜、父が万馬券をとったと上機嫌で帰ってきた。母にケーキと小さな箱を渡し、お前、誕生日だろう、と言った。母は眉間にしわを寄せ、あきれたような泣き笑いのような顔をして、こんなもの、と言って箪笥の引き出しにさっさとしまい込んでいた。ケーキはモンブランとショートケーキとチョコレートだった。私は「クリスマスみたい」とはしゃぎながらチョコレートを食べ、母は黙ってモンブランを食べていた。父はこれじゃ俺の誕生日みたいだと言いながら、イチゴをつついていた。
それから半年後の八月、父は競馬場からの帰り道、トラックの事故に巻き込まれた。

母は髪をいつものように手早くまとめると、台所に立ってそうめんを茹で始めた。トントントンと薬味を刻む音がする。
流しに背を向けたまま母が言う。
「来週、三周忌だからね」
私は、あ、と思う。そして「ふう」とも「うん」ともつかない返事をした。
「あんた、あの時もそうだったわ」母が背中を向けたまま、ちいさく笑い声で言う。
「スイカ、食べてたから」
私は柘植の櫛の匂いを嗅ぐ。芳ばしい匂いがする。椿油の匂いなのだろう。今度買いに行こうと思った。そして短くなっても母の髪をまた梳いてあげようと思った。父もほんとうは母の髪を梳いてあげたかったのかもしれない。
「できたわよ」
目の前に置かれたたっぷりの青じそと茗荷の香りが冬の記憶を薄れさせる。私は櫛をポケットに入れると、「お腹すいちゃった」と母に向かって言った。

おわり (2021/9 作)

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