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掌編小説【バタフライ・エフェクト】

お題「台風」

「バタフライ・エフェクトって知ってるかい?」
小学生だった私の手をひいて散歩しながら父が聞いたことがある。
「なんかおいしそう」私の答えに父はホロッと笑みを浮かべ「お菓子じゃないよ」と言った。私はがっかりしながらも父の言葉が続くのを待ったが、そのまま父はなにも言わなかった。私たちは海辺まで歩いた。少し風が強くていつもより波が高かった。私たちはだまって波の音に耳をすませていたが、父がぽつりと言った。
「海はいいな。生きているって感じがする」
父の冷たく乾いた手から力が抜けていた。でも離したら風に吹き飛んでしまいそうで、私は父の手を離さないようにギュッと握りしめた。

それから間もなく、父は他界した。
【バタフライ・エフェクト】は、あの日から何年も小さな菓子箱に入ったまま私の心の隅に置き忘れられていた。
理科の授業中、突然それが私の耳に飛び込んできたのだ。聞いた途端に菓子箱のフタが開いた。
「ブラジルの蝶の羽ばたきがテキサスの竜巻につながるのか?これは初期に起こったほんの些細な出来事が、思いもよらない大きな結果を招くことがあるという事の例え話だ。ことの始まりがほんの少し違うだけで、予測できない大きな違いが生まれることがある…。ぼくは自然現象だけの話でもない気がするね。例えば何気ない誰かの言葉や行為が刺激になって未来が大きく変わる。そんな事はよくあることだ。本人がそれを自覚していなくてもね」と先生は言った。
帰り道、向かい風に身をかがめながら私は考えた。バタフライ・エフェクトがそういう意味なら、あの時、父はなにを言いたかったんだろう…。

あの時、海辺で父の手を握りしめながら私は聞いたのだ。
「ねえお父さん、海にはどうして波があるの?」
「風だよ。風が吹くから波が生まれるんだ。今日の波が少し高いのは台風が近づいているせいだ」
「ふうん」
「小さな風でも波はたつよ。同じように、ちょっとした事でも人の心や体に影響する。今日お父さんが元気なのはお前と手をつないで散歩してるからだ」
「じゃあ、明日もさんぽしよう」
私がそう言うと、父は私の手をギュッと強く握り返した。父の細い指から力が伝わるのがうれしくて私は痛いくらいだったのをガマンして黙って握られていた。

向かい風がさらに強くなってきた。今日も台風が近づいている。そもそもこの台風の原因はなんだろう。遠くの国の蝶の羽ばたきなのだろうか。あの日の台風も。父が病気で亡くなったのもどこか遠くに最初の原因があったはずだ。
でも、そんなのはわからない…。
私は父の手を強く握ったけど、それは父を生かすことにはつながらなかった。私はそれがずっと悲しかった。
では、父が強く握り返してくれたことは…?
私はあの時の力強さと感触をありありと思い出した。つい今しがた握られたみたいに。
私はいつの間にか家を通り過ぎて海辺まで来ていた。波が高くなっている。漁船が沖に向かっている。
「海はいいな。生きているって感じがする」
あの時、父はそう言った。海には波がある。風があるから波が生まれる。海が生きているのは風があるからだ。私も生きている。私が生きているのは父がいたからだ。
「おとうさーん!」
海に向かって大声で叫んだ。父はあの日私の手をとても強く握った。蝶の羽ばたきさえ竜巻を起こすなら、あんなに強い力が今の私に影響しないはずがない。あの瞬間、父の強い力が私の将来を変えたのだ。この先もきっと変わり続ける。だって私は生きているのだから。痺れるような確信と生きている実感に私は身震いした。私は鞄を投げ捨て、靴が濡れるのもかまわず波打ち際まで走り、もう一度海に向かって叫んだ。
「私、生きている!」

おわり (2021/6 作)

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