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嘘の素肌「第19話」

 瑠菜の入院理由はインフルエンザだった。部外者には季節モノのウイルス程度で入院とは大袈裟だと揶揄されそうではあるが、三日三晩三十九度近く熱が続いた瑠菜は先天性無痛無汗症の弊害で発汗が困難な状態にあり、生死の狭間を彷徨うほどの事態にまで発展した。一年間、就労支援施設での生活へ健気に取り組み、これから更に自分のできることを増やしていこうと考えた矢先の緊急入院。僕も仕事終わりや休日を利用して瑠菜の元へ毎日面会に行ったが、熱が下がり回復し始めた瑠菜が「私はやっぱりみんなと違うんだね」と涙を零す姿はさすがにみていられなかった。

 和弥にも瑠菜の入院については、芳乃家から僕が連絡を貰ってすぐに同じ内容を送信した。が、結局和弥が瑠菜の元を訪ねたのは入院から七日目の昼だった。妹の命に関わる場面でありながら、「落ち着いたら行く」とはさすがに暢気過ぎやしないか。和弥と疎遠気味なことも手伝って、僕は彼に対しひたすら罵詈雑言をぶつけたい心地だった。しかし、ここで和弥に叱責を浴びせたところでそれは自己満足でしかなく、血縁者でもない僕が瑠菜の兄貴面をしている方が薄気味悪いとこじつけて、なんとか留飲を下げながら一週間を過ごした。


 高熱から解放され、瑠菜の容態も点滴のおかげで安定していたが、無痛無汗症との合併症が引き起こされるリスクを危惧し、更に二週間は医者の指導で病院での生活を余儀なくされた。僕はその日、瑠菜の好物である林檎を剥いてあげようとデパートで果物盛り合わせを買い求め病室へ向かった。両親の計らいを以て用意された有料個室のスライドドアを開くと、室内には病床に寝そべりながら読書する瑠菜、簡易椅子に腰を下ろしながら寝間着を畳む母親、そして、スケッチブックに何かを描いている和弥の姿があった。

「和弥、来てたんだ」

「おおう、茉莉。久しぶりだな」

 四か月ぶりの再会に、少々ぎこちないテンポでのやり取りが交わされる。それだけ以前は一緒に過ごしていたのだと思うと、二十七の男同士にしてはなかなかにけったいな気もする。

「お母さん。果物買ってきたので、瑠菜ちゃんに剥いてあげてください」

「あら、いつもいつも悪いわね。ありがとう」

 母親は丸椅子から立ち上がって頭を下げた。僕は胸元で手を振りながら「全然」と会釈をする。垂れ下がった長髪を上品に片耳へかける母親の目元は、窓側で僕と母親とのやり取りを微笑ましそうに眺める和弥によく似ていた。

 フルーツバスケットを母親へ手渡し、瑠菜の元へ近づく。彼女のおでこに手を当て、熱が完全にひいていることにひとまず安堵する。

「毎日来なくていいのに、ありがとね」

「いいんだよ」やはり瑠菜の笑顔は僕にとって平穏を象徴する装置だと、こうして顔を合わせる度に痛感させられる。「僕は暇人だからさ。でもタイミングよかった。今日は珍しい客人もいるみたいだし」

 皮肉調子の横目遣いで、和弥を視ながら言った。

「おい、俺は一応、家族、なんだぞ」

 あえて刻むような口調に、瑠菜がくすりと笑う。

「ねえきいてよ茉莉くん。和弥ってばね、せっかくお見舞いに来てくれたのに、さっきからずっと絵描いてるの。ほんとさあ、超だらしない兄貴って感じ。何年振りかに会ったんだから、少しは私の近況訊いたりするよね? 普通はそうだよね?」

「瑠菜、そういうのは茉莉お兄ちゃんにしてもらいなさい。俺はあいにく普通じゃねえからな」和弥がスケッチブックをパタンと閉じて、鉛筆を紺色の細長いペンケースに仕舞った。「よし、茉莉が来たことだし、ちょっくら喫煙所行ってくるわ」

「お絵描きの次は茉莉くんって」呆気に取られた瑠菜が大きく溜息を吐く。「和弥ってすっごい単純」

 にかっと口角を上げた和弥が、瑠菜の頭を雑に撫でて「お前もな」と呟きながら病室を出て行った。僕は母親と瑠菜に「すみません、ちょっと外します」と目礼し、能天気な和弥の後を追った。



 病院外付けの喫煙所で、僕らは並んでベンチに腰を下ろした。先に一名、病院関係者らしき男が煙草を蒸かしていたが、男はスタンド灰皿にフィルターギリギリまで削られた吸殻を押し付けるとそそくさと立ち去っていった。

 和弥が待合室の自動販売機で購入した缶珈琲の一本を僕へと渡す。受け取りはしたが、そのまま片手で転がすばかりで飲もうとは思わなかった。和弥はすぐにプルタブを弾き、煙草の煙をほき出す合間で旨そうにそれを飲んで、何も言わず、ただ成分表示とデザインラベルへ意識的に視線を注いでいた。その胡散臭いポーズに、なぜか芯から怒りが込み上げてくる。「おい」僕にしては鋭利な呼びかけに驚いたのか、和弥は缶から目を逸らし、肺に届く前の煙を今度は両方の鼻の穴から抜いた。

「なんで来たんだよ」

 おかしな質問ではある。そもそも瑠菜が入院した内容を和弥に伝えたのは僕自身であり、それは瑠菜に万が一のことがあった場合、和弥は悔やんでも悔やみきれないだろうし、瑠菜だって口ではああ言いながらも、兄がお見舞いに来てくれたら喜ぶだろうと想定して、二人の不仲を踏まえた上で和弥に連絡した。その意図を汲んで、瑠菜の兄として、親友からの緊急要請として瑠菜の容態を確認しに来るのは当然の行為だ。それなのに、許せない。いざ来たら来たで、今更兄のように振る舞う和弥が、贋兄である僕の癪に障ったのだ。この数年間、瑠菜の身に何があろうと和弥は会いに来なかった。それが祝い事でも、心配事でも、和弥は瑠菜と向き合わなかった。親から勘当されたという言い訳を盾にしていたが、それも嘘だった。僕が最初に病室へ足を踏み入れた時、そこには三人の、家族の香りがしっかりと漂っていた。もし仮に和弥が勘当されているのであれば、お見舞いに来ても門前払いを受けて終いだったはずだ。結局和弥は、夢という他者によって侵害されにくい志を引き合いに、家族という繋がりから逃げ続けていたのだ。振り返れば、いつもそうだ。自分が窮地に追い込まれそうになれば偏った持論を展開し、その持論に理解が及ばぬ他者を一般だと足蹴にする。自己防衛の範疇を越えた攻撃性で言い包めてしまえば、和弥自身が直面する不利益は心に干渉してこない。逃げて逃げて、逃げ続けて完成したのが、今の和弥なのだ。十七年前から僕は和弥を、誰よりも近くで見続けてきた。憧れて、死ぬほど羨ましくて、それでも届かない僕のヒーローは今、僕との不調和に耐え兼ね、素っ頓狂なふりで面白くもない缶珈琲を熟視している。だから売れないんだ。逃げ癖がついた人間に、傑作が描けるわけがない。同じく表現の世界で戦っている村上は違う。村上は和弥のように逃げたりはしない。全部ぶつかって、弾けて苦しんで、そのリアルを小説にする。腐れば退廃、デカダンだとでも思っているのだろうか。例えば麻奈美さんにしても、植物状態の息子との未来を視ているし、難病を抱える瑠菜だって、自分の将来と病の差から目を逸らさないでいる。梢江もそうだ。取り返しのつかない過去に対し、贖罪として、現在進行形で向き合っているのだ。今年の春に和弥が言っていた「俺は今、半端なんだ、もっと苦しまなくちゃな」という台詞。これだって、破滅によるトラジェディ、その主人公であることを僕に対し演出していただけだ。売れない絵描き、貧相な生活、そういう恥を本当の意味で晒すことのできない和弥へはもう、あれだけ培われた畏敬の念すら失われてしまったのだ。


 僕の質問には答えず、和弥は性懲りもなくラベルに視線を再度注ぐ。

「無視するなって。そんなの視ても僕の問いに対する答えは載ってないんだから」

「あのなあ茉莉」

「なんだよ」

「変化が無いようにみえて、実は企業側の配慮で、こっそりリニューアルされてるかもしれねえだろ。改良、アップデート、前向きな変化を大々的に押し売るのはセールスの基本かもしれないけどな、消費者にとって、馴れ親しんだものからの唐突に押し付けられる変化は怖いもんだからさ。優しい企業さんが消費者をビビらせないよう工夫しつつ、それでも、もっと美味しいものを届けたいという理念の元で、小さな革命を起こしてるかもしれねえだろ。俺はさ、その企業努力に気付ける消費者でありたいんだ。この味が好きってだけで、俺はなんとなく盲目になって、馬鹿の一つ覚えみたいにガブガブ飲んでたけどさ、好きだったらちゃんと見つめてあげなくちゃいけないなって。そういう考え方が、今の茉莉にできるか?」

 突然向けられる和弥からの釘差すような物言いに、僕の神経が更に逆立っていく。

「話逸らすなって」

「逸らしてねえよ。真実について話してんだよ俺は。ちゃんと聞けバカ」この十七年、格別の間柄として接してきた僕らにはない、確執の予感。和弥はそれを畏れていないような、堂に入った態度で僕を睨みつけている。「自分が大切にしているものや事の変化を、ちゃんと受け入れたり、理解しようと寄り添ってんのかって訊いてんだよ。中学の頃から茉莉には悪癖があって、それが今の話に繋がるんだ。お前さ、昔から自分が納得できる貌に相手を造形するんだよ。お前がAやB、白や黒、右や左でどちらも正解だと解釈できる力があるからこそ、自分がAだと思った瞬間、Bはお前の中で全否定してもいい俗物として断定される。狂気だよな。己が正義だと信じて疑わない正義が一番の悪なんだよ。つまり、戦争みたいな男が桧山茉莉の正体ってわけだ。そんなに自分が正しいか? 苦しんだ分だけ強くなって、涙の数だけ打った鉄なら人を切っても不問になるのか? 愛がわからないから、遮二無二愛の真似したら愛の本質に近づけると考えたのか? 誰かを愛したフリさえ上手ければ、表面上で理解者を演じればそれで愛が成立するとでも思ったのか?」きっと最初から、梢江の事を言っていたのだとわかった。「ダセえんだよその生き方。寒疣立つぐらいな」

「梢江から連絡来たのか」

「ああ、お前と一緒にいるのが苦しいってさ」

 和弥の嘲笑じみた態度に、細胞が粟立って理性が揺らいでいく。

「お前、多分梢江ちゃんのこと見下してるんだよ。自殺を考えてしまう弱い人間。全くの他人である梢江ちゃんを、その要素だけで忌むべき母親に重ねて、彼女の希死念慮を否定してさ。言ってたぜ、梢江ちゃん。『私が終わりの話をすると、彼は反発して始まりの話をしたがる。光の世界に無理やり私を連れ出そうと自棄になって、此処に居たいと、深海が一番落ち着くからやめて欲しいと心が叫んでるのに、彼はその声に耳を傾けようともしない。生きてたらいい事あるからみたいな、私が死ぬ事でしか幸せになれないのに、彼はそれを許してはくれない』って。最愛が聞いて呆れるわ。自殺志願者の逆、生存主義者とでもいえばいいか? 単細胞のクソ野郎に、梢江ちゃんはまだ早かったんだろうな」

 和弥が押し黙った刹那、僕は右手指に挟んでいた煙草を地面へ叩きつけ、作り上げた拳を大きく振り上げ和弥の頬を殴り飛ばしていた。衝撃でアスファルトに吹き飛んだ和弥へ馬乗りになって、左手で胸倉を掴み、右手で何度も頬を殴った。

「ふざけんな! どうしてだ! 愛する人に生きてて欲しいって思うのがそんなに間違ってるのか! 寂しいことも辛いことも背負ってあげるから光の世界に行こうと手を掴むのが罪なのか! お前らおかしいんだよ! 死んだってなにもないんだぞ!」

「んなことわかってんだよ!」

 和弥は振りかぶった僕の腕を掴み自らの上体を起こした。鼻血を垂らしながら、空いている手のひらで僕の髪を掴み、力だけで身体を引き剥がしてくる。元々腕力の強い和弥は、僕を立ちあがる反動を利用し地面に叩きつけるよう放り投げた。鼻血を手の甲で拭った和弥が、靴の先で僕の腹を思い切り蹴り上げた。鳩尾に爪先が抉り込んで、思わず唸り声を上げた。

「何発も……痛えんだよ。調子乗りやがって。俺が手出さねえと思ったか」

「うるせえ……」

 上手く呼吸ができない。腹を抑えて芋虫のように這い蹲る僕を、和弥は見下ろしている。

「死にたい人間はわかってんだよ。大切な人が自分の死によって悲しむことも、死んだって幸せにはなれないってことも、お前に説教されなくたって全部わかってんだよ。それでも、死ぬしかねえんだよ。それしかねえから、もうどうしようもねえんだよ」決死の思いで視線を持ち上げると、和弥の顎からは額を伝った雫がぽたぽたと落ちていた。どうしてお前が泣くんだよ。なあ、和弥。「死ぬのは痛いんだ。自分で死ぬなんてのは、誰かに殺されるよりよっぽど痛いんだ。でも、生きてる方が痛くて堪らないから、一瞬だけ、死ぬほど痛いの我慢すんだよ。楽になれるって信じて、それこそ一縷の望みに縋って。茉莉、痛みってのは真実なんだよ。痛みは平等に、たとえ瑠菜みたいな病気を抱えた人間の中にもある、絶対的なものなんだよ。痛みだけが、嘘の無いものなんだよ。茉莉、自分の拳見てみろよ」

 和弥に言われるまま、僕は手のひらを腹部から目元へゆっくりと寄せた。和弥を殴ったことでこびりついた血と、既に薄らと赤紫へ腫れ始めた関節が目に留まる。

「お前の手、すっげえ痛そうだ。多分今夜、飯食う気なくなるぐらいに痛むと思う。拳の骨を脆く作った神様は天才だったんだ。もし俺の拳が生まれつき鋼のように強靭で、人をいくら殴ろうとも痛まなかったら、俺はきっと人の道を外れてただろうな。殴られた方よりも殴った方が痛いって説、あながち間違いじゃねえんだよ。俺はお前の猫パンチ程度じゃ、もう痛くも痒くもねえけど、お前は俺を殴った事実、ずっと痛いままだろうからな。だってそれ、初めてだもんな。幼少期に母親から向けられることはあっても、茉莉は頑なに、誰にも向けてこなかったもんな」

 和弥が何を言おうとしているのか、僕にはわかっていた。

 この男は、とことん両義性に生きている。善悪の判断すらも曖昧にして、答えを出すことを全力で回避している。僕の母親のことを、彼は肯定も否定もしない。ただ、僕自身に、母親の立場になれと言っているのだ。被害者と加害者、両方の意識を持つこと。残酷でもそれを実行し、自殺する者の立場になれ、と。そうすれば、梢江の気持ちがわかるから、そんな風に。和弥の生き様は、まるで凪だった。鏡のように上空や船を映し、恐ろしく静かな状態を保つ海面。風のない、和弥の落ち着き払った思想は凪のようで、相対する僕は結句、人を呑み込む波でしかない。どうして凪でいられる? 何者かになりたくて、必死だった僕は波になる為に生きた。それなのに、僕の憧れは凪いでいる・・・・・

「痛みだけが、この世界で唯一嘘じゃないものだってこと、それだけ忘れないでくれ。蹴って悪かったな。でも俺の超絶急所打ち一発と、お前の雑魚パンチ数発。これでちゃらだな」

 和弥がいつもの歯に衣着せぬ様子で僕の隣に座り、煙草を取り出す。見飽きてしまった、キャビンレッドの八ミリ。

「痛みに負けてしまった人、つまり痛みに耐え切って勝ち越した人のことを茉莉が肯定できない気持ちはわかるから、だから、頼むから、否定はしないでやってくれ。俺はお前の、親友でいたいんだよ。この先もずっと、な」

 三月の乾燥した空気のせいか、ここ最近増えた喫煙量のせいかわからないが、僕の喉の調子は最悪だった。イガイガと何かが詰まって、常に扁桃腺は熱を溜め込んでいるような。だから、何も言えなかった。僕はもう、和弥に対しモノを言うことができなかった。

「たまには喧嘩も悪くねえなぁ」

「僕は二度と御免だよ。和弥が強いの忘れてた」

「俺は昔、クラスの喧嘩番長だったんだぜ」

「よく言うよ。絵ばっか描いてる陰キャだったくせに」

「おい、お前も大して陽キャじゃなかっただろ」

「そりゃそうだよ。和弥が隣にいたからね」

「俺のせいにすんな。まあ女遍歴だけ陽キャ越えしてたけどな」

「それ、全然ダサい。やっぱ僕の生き方ってダサいのかな」

「んー、そんなことねえよ」

「さっきダサい生き方って言ったのは和弥の方なんだけど」

「あれは頭に血が上ったんだよ。誰かがお前の生き方を、本気でダサいって言うかもしれねえけどさ、俺は好きだな、ホンモノっぽくて。俺には絶対できないし、いや、誰にも真似できない、すげえなって素直に思うよ」

「ちょっと馬鹿にしたでしょ」

「九十パーぐらい馬鹿にした」

 殴る素振りで和弥を脅そうとしたが、拳を作るのが厳しいほど手の甲が痛んだ。

「な? 痛えだろ?」

「懲り懲りだよ」

「暴力反対! よし、俺に任せろ」

 そう言って和弥は、僕の手に指先で触れて、

「痛いの痛いの、飛んでいけ!」

 と、子どものように唱えてみせる。

「ねえ本気で恥ずかしいよ、お前幾つだよ」

「うっせえ、まだ終わってねえから黙っとけ。痛いの痛いの、飛んでいけ! それから、痛いの痛いの、いつか、コイツを守ってやれ!」

「あー、十七年一緒にいても、やっぱ和弥がよくわかんないや」

「だろう」嬉々として眦を狭める和弥につられ、僕も噴き出すように笑った。「俺はなんとなく十七年間で、お前のことわかったけどな」

「例えば?」

「うーん、あ、あれだ。さっき瑠菜から礼言われたやつ」

「お礼?」

「ああ、十万のことだよ。ほんと、茉莉らしいわ」

 僕と和弥の間に置かれたライターを借りて、咥えた煙草の先に火をつける。きっとゴールデンウィーク中に和弥から瑠菜の進学祝いとして預けられた五万円の話をしているのだろう。僕がプラスで五万包んで、全て和弥からだと瑠菜に渡した金。この金額で、二人の仲が少しでも回復すればと願った。今思えば贋兄貴らしい、野暮ったい行為だった。


「なあ茉莉」


 凪に波紋が伝うような、僕の波を煽る様な、そんな振動を含んだ音。


「なに」


 和弥は表情を弛緩させ、ただ僕に、


「ごめんな。お前にとって、生涯の天才でいてやれなくて」


 そう言った。


 その言葉に、どれだけの想いが含まれているのか、当時の僕の頭では到底理解できるものではなかった。和弥が吐いた煙は空気に攫われ、実態を失い匂いだけを残す。記憶に刻まれるのは、混じり合う紫煙の数々。和弥の言葉の後で、快晴続きの青空に、僕は光りの騒音を見つけた。深海が良いと言った梢江のこと。それを頭ごなしに否定する僕へ、最初で最後、痛みという事象を用いて教えてくれた、唯一無二の親友のこと。何度反芻しようと戻れない時間。寂寞は、永遠の呪いとなって僕を埋め尽くすだろう。何者でもない僕を、何者かにしてくれた神様のような存在。あの日、芳乃和弥と出逢ってから、僕はずっとなりたかったのだ。和弥のような、ヒーローに——。





 それから二週間後、瑠菜の退院を待って、和弥は自殺した。


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