今、私にとって"書くこと"は、弔いなのです。

ふとした瞬間に思い出されて、自分一人で気まずくなったり悲しくなったり後ろめたくなったりしてしまうような、「なんだかなぁ」な思い出や気持ちを、誰しも抱えているんじゃないだろうか。

ていうか、あけすけに言うとみんな抱えててくれたらいいなぁ、なんて思う。
性格悪いけど、私一人だけ長いこと抱えているなんてしんどい。
だからみんなちょっとは何かしら一人で抱えててほしいよう、とか思っちゃう。

私は、何年経っても未だに忘れられない「なんだかなぁ」がいくつもあるし、これからの人生でもなんやかんや沢山あると思う。
でも、人に話すのはちょっと憚れるというか、ちょっと後ろめたいような気もするから話しにくいとうか、人に話せるほど自分が言語化できないというか。
要するに、「悲しい」とも「悔しい」とも「恥ずかしい」とも、どこの箱にも分別ができていない思い出や、ちょっと後ろめたい気持ちが、お腹の底に沈んでいるのだ。
捨てることも捨てないこともできなくて、保留の箱にとりあえず収めたけれど、ずるずる放置し続けているガラクタみたいに。

普段は忘れていて何事もなく生活できていても、ふとした瞬間にむくむくと蘇って、喉のあたりが苦しくなって、むせ返りそうになる。

最近、そんなふうに息ができなくなりそうな時は、迷わずそのことをnoteに書いてしまう。(昨日の熱海旅行のnoteも、そうだったのでした。)
これは、一種の弔いだ、と思っている。

少ししんどくても、言語化することによって思い出や気持ちは因数分解されて、複雑に絡み合っていた成分が洗い出されていく。
書くことによって、気持ちが蒸留されて、無駄なものが削ぎ落とされて、混じり気のない気持ちが洗い出されて出てくる。悲しくっても汚くっても、本質がわかればちょっとだけ楽になれる。ちょっとだけ。
書いてみたけど結局ようわからんかったわ、ということもまああるのだけど、今まで誰にもいえなかった「なんだかなぁ」をちゃんと「なんだかなあ」って言えたんだから(文字でだけど)、それはそれでいいのだ。

noteに書くという行為を通して、ほっとき続けて腐りかけていた気持ちをきちんと弔って、成仏させる。
そうして、「なんだかなぁ、とりあえず保留」の箱に収めて蓋をしていた荷物を、私は今少しずつ減らしている。
片付いたことが嬉しくて、少しほっとする。誰にも言わなかった、言えなかったもやもやのタネを潰していく。
大げさかもだけど、今の私にとって書くということは、自分でする自分のための、一種の救済、なんだと思う。

映画「勝手にふるえてろ」の舞台挨拶で、主演の松岡茉優ちゃんはこんなようなことを言っていた。
「この映画は、色んな思いを抱えて生きている人たちの、お葬式のような映画です」
「少しでもここで吐き出していってほしいです」

うろ覚えだけど、そんなようなことを。

後ろめたかったこととか、なんとも言い様のないくせに忘れられない色々を、私もnoteに書くことで弔って、一人で連日お葬式をしている。楽になりたくて、粛々と火葬するように書いている。

しばらくは、ちょっと後ろ向き、というか、ぶっちゃけだいぶ根暗な自分のために、自分が楽になりたいがために、毎晩noteを書くと思う。
ひとまず、「なんだかなぁ、とりあえず保留」の箱が、もう少し軽くなるまで。

楽しいこともハッピーなことも、ほんとは沢山書きたいんだよ〜!笑
実物は、もう少し元気そうに、愉快に笑って生きています。

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