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プライドとか、ダサい。


プライドをもってる人って、カッコ悪いと思ってた。

自分を過大評価してる、少し勘違いした人だと思ってた。

そんな「プライド」って書かれた重い看板捨てて、自分を客観視して等身大で生きていこうよ、何でムダに苦しむの?と。


ただ、大学院で色んな経験を積んで、考えが変わってきた。


”人間は、ありのままではいられない。社会から何らかの影響を受けてデザインされている。”

これは最近読んだ本の好きな言葉です。(何の本かはわすれた)

人は社会で、様々な”看板”を知らず知らずに背負っています。例えば家では夫や妻という看板を、職場では役職や周りからの期待という看板を。

そしてその看板は、たいてい自分の背丈より大きく感じることが多いかと思います。ただ、プライドをもっている人は、等身大の自分には無理だからと看板を下ろしたりしないのです。なぜ。


理由は2つあると考えます。

その1

その看板を下ろすことで所属している組織に迷惑がかかるため。

これは、職場や部活が多いかと思います。例えば、担任の先生が教師という看板を下ろし「成績つけるのだるいんでだしませーん」と言ったとします。そうすると子どもはもちろん、保護者や学校全体に迷惑が掛かりますよね。「仕事はプライドもってやるべき」という言葉はここに通ずるでしょう。教師は教師という”看板”を背負い続ける代わりに報酬を得るというシステムで学校は成り立っているのです。


その2

その看板を「自己成長のために」自ら背負ったため。

これがいわゆる「プライドがある人」かと思います。組織に背負わされたのではなく、自分が成長するために自らその看板を背負い、それに耐えることで成長する原動力にしているのだとようやく気づきました。


私が過去②のような人に対して「看板下ろせばいいのに」と思っていたのは、自分自身が成長しようとしていなかったからであるともいえますね。なんとまあ甘えた環境にいたことでしょう。プライドをもつのに24年かかってしまいました。


私がプライドを持つことの重要性に気づいたのは、非常勤で大学の附属中学校の講師を始めてからです。全国でも指折りの実力のある先生方の所へ、素人の大学院生(ピルクル)が1人放り込まれると知った時、心の底から「成長しなければ!!」と思えました。「教師」という今の私にはあまりにも大きい看板を背負い続けるために、自分の想い描く理想像という背丈に到達するために、明日もプライドを燃やして頑張っていきます。


プライドは、自分を動かす原動力になる。


最後までご拝読いただき、ありがとうございました。

2020.8.24


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