優しさとは
最近、優しいってなんだろうと考える。
きっかけは高瀬隼子の本を立て続けに3冊読んだこと。そこに出てくる男性は、優しいのか、ただ利己的なだけなのかよく分からない。優しさと利己的ってすごく離れているもののように見えて、実は近いものなのかしら。
本を読んでいて思ったのは「きみはぼくがいないと生きていけないだろう?」みたいな気持ちで相手に優しくするのって、果たして優しいのだろうか、ということ。それって、自分に酔ってるだけなんじゃないの、とか相手を見下してないか?とかあまり良い印象ではない。
でも、下に見てるからこそ発生する「優しさ」もあるのではないか、と自分の中から声が聞こえる。あなたは初心者だから、新人だから、女だから、男だから、子供だから、高齢だから、私が代わりにやってあげるね、みたいなことはその一種な気がする。もちろん、この例を表すのに見下しているという言葉が最適解でないことは分かっている。でも、この気遣いの延長線上に、先の台詞もあると思う。できないなら、代わりにやってあげなくちゃ。弱い人は守ってあげなくちゃ。
大学生になって今住んでいる街に引っ越してきたばかりの頃、ぎょっとしたことがある。市内循環バスにでかでかと「障害者を虐待から守りましょう!」とラッピングされていたのだ。私はこの文言を見て、まるで障害を持つ人たちが虐待の対象であるのが前提みたい、健常者が障害者を守るって、健常者の方が立場が上みたい、とひどくグロテスクな文に見えた(私が障がいではなく障害と書くのは障害はその人たちにあるのではなくて彼らを受け入れる社会の方にあると思うから。社会の仕組みによって、その人の特性が障害かどうかは分けられると思う)。
こういった、相手より自分が「できる」立場にあるからやってあげよう、守ってあげよう、という優しさは本人が意図したように、「あなたを尊重してますよ」とそのまま真っ直ぐ相手に伝わる場合ももちろんあるだろう。でも、時には相手に「私はあなたを下に見てますよ」というメッセージを暗に伝えかねないとも思う。ひねくれすぎかな。実際守る・守られるの関係は社会に必要なわけだし。
こんなことを考え出したら、きりがないし、優しくされたらそのまま受け取ればいいじゃんとか思われるかもしれない。自分でもめんどくさいな、と思う。優しさに隠れた見下しなんて気づかない方が楽に生きることができるし、ただの考えすぎでそんなものないかもしれない。私がこういうことに敏感になってしまうのは、きっとジェンダーに関心があるから。「女の子だから」という考えが嫌で、かえって敏感になってしまい、そこから「もしかして女だから優しくされるのでは」と考えて、ここまで拗らせてしまったのだろう。
そんなに小難しく考えずに優しさを素直に享受したらいいのに、という気持ちと、優しくされても、そこに女性を軽んじる視線があるならそれは見逃せないという気持ちが戦っている。
もうどう締めたらいいか分からないから、尻切れトンボで終わらせちゃう。いつも終わり方が迷子。
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