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「興味がない」は思っているよりも自・他・目的物に暴力的なこと

「興味がない」という言葉は、少々暴力的な言葉だなあと思う。というのも何事も面白い面はあるというのはもちろんでだけれど、「興味がない」と言った時点で、あるいは思ってしまった時点で、相手とその事物への敬意が自分の中で多少なりとも削がれ、それは相手への諦め、その事物への諦めになると思うから。誰かに言い放った結果、他者、その事物(目的物)の背景にある内奥への思考はストップする。それを考えられない自分への一種の“諦め”をしていることにもなるのではないかと思う。「興味がない」を言ったことの先にはそんなマイナス効果が生まれてしまうというか、結果的にそれを包含する状況を生むと思う。

その目的物に自分の引っ掛かりを見出せない、つまりその提示された事物を深く考えて“みよう”としていないことか、それができないことを露呈することにもなる。「私は冷徹かもしれないけどはっきり言うタイプだから許してね、あなたはつまらないよ」と言いたい意思表示かもしれないけれども、むしろ逆効果になる場合が多い気がしてる。人は離れていくし、思慮の浅さと、人や物事を見下した姿勢、普段の対人関係の姿勢も表面化してしまう。いろいろと負の効用ばかり生んでしまう。

「興味がない」が口癖になっている人は、まず内省して実際は多少なりともあることを認めるか、自分でそれに気付いていない場合は自覚をするか、または本当に興味がない場合には「興味がない」と言うのをやめた方がいいんじゃないかと思う。「興味がない」は結果的に、自分と相手と事物から得られるはずだった何かが鈍い音を立てて失われてしまうことになる。

むしろ、僕らは興味で生きている。何にも興味がなくなった人生は虚無感しか残らず、虚無感は孤独感を生む。逆に「面白そうだ」と言える関心事を多く持っている人、あるいは見出せる人は、興味の引っ掛かりを探せることと、単眼的に事物を判断しない意味で幸せだと思う。

...と深夜にそんなことを考えていたのでベタうちしてみた。


金藤 良秀(かねふじ よしひで)


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