“集中”と多動の力技で乗り切るのもいいけど、捉え方をちょっと変えて柔軟になってみるのも悪くないどころか、時間密度を上げて生きていくには必要なのかもしれない

最近は時間密度の上げ方を前よりも意識するようになって、無駄な時間を過ごさないように細心の注意を払って生活している。誰も無駄な時間を過ごしたいとか過ごそうなんて思っていないはずだけど、いつの間にか意図せぬ時間が生まれていたり、あるいは時間を奪われていたりするもので、そんな不意の時間浪費をなくすことにより意識を向けてきた。

今までの僕にとって時間密度を上げるとは、とにかく「集中」できる時間を増やすことだった。その「集中」が向かうのは、仕事や読書、あとは多少の友人との会話があればいいだけで、それ以外はもったいないと思っていた。「いまは必要ない」と思うとどんなことでも、たいていかなり大袈裟なほど断ち切ってしまう性格のせいかもしれない。

しかし考えてみると、ひとくちに「集中」といっても、自分の目の前(外部)に対してのみならず、頭の中(内部)のことに対して集中することもある。たとえば、仕事に関する思索を巡らせていたり、内省していたりといった時間。過去・現在・未来を紐づけていたり、アイデアを模索していたりと、一つの物事に考えが定まらずあちこちに飛んでいるように思えても、思考の進み具合や深度によっては、“内側で”集中しているということになる。何も作業に没頭することだけが「集中」じゃない。

脳科学的にいうと集中(concentration)というよりも注意(attention)という言葉で表現することが多いらしい。たしかに、注意が「どこに」向いていて「どの程度」集まっているかが重要なので、「集中」と一言するとどうしても狭い範囲に意識が集まる状態を指すことになってしまう。

注意があちこちにいっているようでも、“夢中”になっていたり、楽しんでいたりする場合もある。それもいわゆる一つの“集中”と言える。つまり、何かに“集中する”(注意を向ける)ことは、自分の頭の中のような内外を問わず起こるということ。

これらは高低と広狭の四象限で表すことができる。それを描くと、結局のところ、集中とは“注意の向き方”が違うだけだと捉えられる。それを知って、今では生活の中に無駄な時間はあまり生じていないように思える。つまりは脳をどう使うかが問題なだけで、能動的に活かそうとしない、言ってみれば情報の咀嚼と代謝が少ない時間を過ごしてしまっているときに、“無駄”を感じるんじゃないかと思うようになった。

さっきの四象限に当てはめて日常を説明してみると、外を歩きながら景色に目をやっている時はout&wideな注意を向けることができるし、目を閉じて思索を巡らしている時はin&narrowの注意が向いている時かもしれないし、過去の自分を思い出そうとしてる時はin&wideな思考をしていて、仕事をしている時はout&narrowの集中ができている、とおおよそそんな感じになる。

まとめると時間的価値を動名詞で捉えすぎずに、シーンによって時間的“性質”が違うので得られるものが変わっているだけだと捉えることで、無駄だと思っていた時間の効用が増えてより時間密度が濃くなるばかりだなあと思うようになってから、時間の使い方も思考の巡らせ方も変わって幸せが増えているのでいいなと思っているこの頃です。


金藤 良秀(かねふじ よしひで)


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