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【映画批評】#2「悪は存在しない」批評を拒む?!濱口竜介監督からの挑戦状

濱口竜介監督、最新作「悪は存在しない」を徹底批評!
批評すればするほど泥沼に浸かる!?こまったちゃん映画の最新形態。


鑑賞メモ

タイトル
 悪は存在しない(106分)

鑑賞日
 5月19日(日)
映画館
 シネ・ヌーヴォ(九条)
鑑賞料金
 1,900円(大人一般)
事前準備
 ほぼなし、予告は観たけどあんまり覚えてない状態
体調
 純喫茶でランチ後、すこぶる良し


点数(100点満点)

80点

画や起きている事象にハデさはない。
なのに、心を揺さぶる不思議な読後感。
映像表現の巧妙、ここにあり。


あらすじ

長野県、水挽町(みずびきちょう)。自然が豊かな高原に位置し、東京からも近く、移住者は増加傾向でごく緩やかに発展している。代々そこで暮らす巧(大美賀均)とその娘・花(西川玲)の暮らしは、水を汲み、薪を割るような、自然に囲まれた慎ましいものだ。しかしある日、彼らの住む近くにグランピング場を作る計画が持ち上がる。コロナ禍のあおりを受けた芸能事務所が政府からの補助金を得て計画したものだったが、森の環境や町の水源を汚しかねないずさんな計画に町内は動揺し、その余波は巧たちの生活にも及んでいく。

映画「悪は存在しない」公式HPより引用

ネタバレなし感想&X短評

考えれば考えるほど手負いになる、答えりゃ必ずボロが出る。
徹底的に他者からの理解を拒む禅問答。
濱口竜介監督の挑発的な問いに大あっぱれと大困惑!


ネタバレあり感想&考察

悪ってナンだ!?

ゼロ年代のナンチャンが、まだ解説者としてひよっこだった栗山英樹 元WBC日本代表監督に問うているわけではない。(いらない文章)

シンプルに、ド直球に、素っ頓狂な顔をした子供かの如く、濱口監督が常に問いかけてくるかのような映画だった。しかし間違いなく確信犯的に、われわれ観客に挑戦状を突きつけている。とてもじゃないが、安易に回答する気は起きない。

ボロが出るに決まっている、恥ずかしい目に会うに決まっている、この映画を鑑賞し、無謀にもこの映画を批評作品として取り上げた時点で負けは確定している。PRIDE1で最強の刺客、ヒクソン・グレイシーと相対する直前の高田延彦の気持ちが今ならわかる。(以降、わかった気になるなという主張が続きます)
ここまでの気後れは仕事でもなかなか経験できるものではない。それぐらい、理解されること、定義されること、決めつけられることを徹底的に拒んでいるかのようだ。

この時の高田の気持ち、今ならわかるよ(詭弁)

これ以降は野暮な文章になる。許してください。

この映画に明確な悪は存在しない。
これは間違いないというか、観客はそう考えざるを得ない話の流れになっている。ここで見出しに戻ろう。

悪ってナンだ!?

悪そのものは存在しない。
もし、存在するなら生まれたときからの悪人か、ある人が悪ですと立候補した場合か、どちらにしてもあり得ない。

存在するとは、実体があるということである。
自分は悪はその人の状態だと考える。

・今日は(雲がないから)【晴れている】
・最近は(運動をしているから)【体調がいい】
・いまは(セレッソが負けたから)【気分が優れない】
・あの時(精神状態がピークに達したから)【悪に染まった】

こんな具合だ。悪はある一瞬に表出するもので常に物体として存在はしない。状態だ。また(原因)に対する【結果】でもある。(半矢の鹿のような状況に置かれる、または当人がそう認識した)ことを引き金に、【悪という状態が表出】する。
ラストはその瞬間を捉えたものだ。この映画の「明確な悪と言える可能性のあるもの」はこの一場面に集約されている。

象徴的なラストから「悪」に対する思考の泥沼へ誘引する

ここからの文章は一個人の勝手な意見である。ご了承願いたい。

巧は手負いでいっぱいいっぱいだった。完全に半矢の鹿である。(観ればわかるので、説明は省く)
しきりに猟の銃声を強調していたのも、巧がいつ引き金を引かれ、突飛な行動を取ってもおかしくないことの予兆だったのだろう。

正直ラストの行動の動機はわからないし、安易に結論付けたくない気持ちが強い。

ただ確実に言えることは
「花をこの先、自分の手から離してはならない(心中するとしても)」
(補足:個人としては心中と結論づけてはいません、あらゆる可能性の一つと考えています)
「この町の自然を守る、並びに最低でも現状を維持するために自ら行動しなければならない」
という、一種の使命感に駆られた故の行動だと考える。

そこから明確な悪性を見いだせるだろうか。少なくとも悪と一義的に断定することは自分にはできない。それまでの巧の苦悩を示唆する描写や、花への心配がピークに達していた状況を察すれば、なおさらだ。

かといって、高橋にお見舞いしたことは、彼からしたらただのとばっちりで許されることでは決してない。これまでのあらゆる事象が複雑に絡み合って生まれた巧の感情を理解できるものは誰一人としていない。それは監督自身も含めた全員だ。

悪は存在しない、ただし悪を定義する存在(他者)がいる。
すべて理解し得る存在は当人しかいないのに、だ。なんなら当人も理解できていない可能性も大いにある。

それまでにいろいろな人間の隠された事情や表情をみせ、言うほど悪じゃないよね?と分かった気にさせながらのこのラスト。
あんたらに理解させる気はない、そんな監督の意図を強く感じ、こちらは怯み、ひれ伏した。自分は監督に野生の鹿に引き戻されたのだ。監督の言う自然に従うほかない。
野生の鹿が人を襲わないように、人も他者を悪と一義的に断罪しない、その自然に従うことを求めているのだろうか。

いや、そもそも悪と断罪しないことが自然な感情の発露だろうか、考えれば考えるほど、問いが増し、肥大する。
観る人によっては苦しさも感じてしまうだろうこの映画、観た者から能動的な思考を引き出すという意味では天下一品だ。大あっぱれである。

悪を定義する主体はあなたの心である

自分が言えることはこれぐらいしかない。
序盤~終盤にかけて、都会代表(その上層)vs地元代表のある種、財産をかけた諍いの一つ一つから、悪を見出さざるをえない構造になっている。
意図したか否かはさておき、都会、地元、それぞれが互いに向けた言動に、今のは悪意だ、悪意じゃない、悪気がある、悪気はない、と一つ一つ判断してしまった観客は少なくないだろう。

判断したあとに必ず、それぞれの事情(原因)が提示され、自身の感情への内省を促される。その提示も何てことはない他愛もない会話や、やり取りだったりするから、余計に自分の下した判断に恥ずかしさが募る。
悪と定義するたびに、心を揺さぶられ、増幅する仕掛けが終始続く。かなり手厳しい映画だと感じた。

悪を定義する主体はあなたである
そのことを強く自覚し、立ち止まって再度考えよ、判断するのはその後で良い

野暮としか言いようがないが、私の結論はこんなところである。
観た後も、困惑が続く泥沼の思考ループに浸かりましょう。


まとめ

実は語りたかった高橋、いや、高橋さん。この人の位置づけと配役が最高だった。この人はオレだ!と思った人は結構いるんじゃないかな。高橋・黛が再訪問した際、巧の薪割りをみて、やってみたいとお願いする、この行動に実は涙してしまった。四の五の言わずにまずやろうよという姿勢は年々薄れていくものだけど、あの不器用ながらちゃんと向き合おうとする最初の一歩みたいな場面にホント弱くなっているなと。あの場面で泣いてるの自分ぐらいだろうなと思い、泣きながら笑ってしまった。
こういう何てことない場面の演出と脚本に凄みを感じさせ、低予算、かつ派手さを欠きながら、ここまで豊かな映画体験をさせる監督の手腕に改めてお見事!とだけ。
実は初めての濱口監督作品でしたが、「ドライブ・マイ・カー」はじめ、過去作も観たいと思います。濱口監督、本当にありがとうございました。


最後に

いやぁ~、疲れた。
先日の「胸騒ぎ」評の結論と完全に真逆のタイトルでどうなることかと思いましたが、ベクトルは全然違ったので、大丈夫でした。そこは安心しました。せっかくなんで、「胸騒ぎ」評もあわせて観てください。興味深い映画体験ができると思います。

久しぶりのシネヌーヴォも最高でした。(下の写真もみてね!)
極めて近い将来、また来ます。(高田延彦)
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シネ・ヌーヴォ入口(大阪・九条)
シネ・ヌーヴォ近くの純喫茶サロット
サロットにてランチ
超貴重!近鉄時代からのバファローズグッズ多数

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