多様性を履き違えた暴論

 タータンチェックに白のフリルの付いたワンピースに黒のタイツ、金髪に近いような茶髪。ぬいぐるみを抱き、おしゃぶりを咥えて満面の笑みを浮かべる男性の写真が一時ネットで話題になった。
「52歳男性、トランスジェンダー女児(6歳)を自認。理解あるトランスカップルの養子になる」という見出しとともにその画像は凄まじい勢いで拡散された。
 
 真っ先に私の抱いた感想は「この女児的なテイストでこの人が着れる服はどんなところに売っているのだろう」ということと「6歳児はおしゃぶり咥えないだろう」という2つであった。少なくとも私の行く様な服屋では取り扱っていない。世界は広い。
 その記事にまつわる情報で彼(彼女)は結婚歴があり、子供も居る。そしてDVの常習者で接近禁止令も出ていたとうものから、養父と肉体関係を持っていたとか様々な情報が錯綜していた。調べれば調べるほどにえげつない内容の情報が次々と出てくるがその真偽のほどは分からない。
 しかし、6歳児として養子になったという事実は間違いないようだ。
 
 6歳児として生きる上で日々どの様に過ごしているのだろう。想像もつかない。学校に通えるわけでもないし、永遠の六歳児として生きていくのは(社会的な目も含めて)茨の道の様に思える。
 6歳の同年代と友人関係を築くのも難しそうだし何より6歳児的な娯楽のみで日々暮らし続けるのは気がおかしくなりそうだ。もしかすると彼(彼女)はトランスジェンダーでもトランスエイジでもなく、ただ気がおかしくなっただけという可能性も有り得なくはない(これは当人か医者にしか分からないだろうが)。もしそうだとしたら彼に必要なのは理解のある義理の親ではなく医療機関ということになってしまう。
 もはや理解とはなんなのかわからなくなってくる。
 
 
 トランスジェンダーというものは私が子供の頃から存在していたし、割によく聞いていた。そこから十数年。トランスエイジというものが生まれるとは思わなかった。昨今、細分化されていく性自認に関しては「まぁ、そりゃあるよなぁ」と思うが”エイジ”と来ると私も宇宙猫の様な表情を浮かべてしまう。
 気になって調べてみるとトランスエイジというものは結構存在する様だ。なんなから日本にも居る。私の狭い世界では見つからなかっただけだ。あるいは自認はしているがそれをカミングアウト出来ずに苦しんでいるのかもしれない。 もしそうであればとても不憫である。
 
 最近のそんな流れを汲んでか、私の勤める世界の果て的な零細企業でも社長の意向で「多様性」「個性」といった言葉が大事にされている。
 職場にいる癇癪を起こしハサミを投げつけ「もう帰りますわ!」と言って律儀にタイムカードを押して(その姿を想像すると少し笑える)帰る男も、主語という概念を持たず、ヒステリックに騒ぐグラマー事務員もすべて「個性」で片付けられている。
 個性とは免罪符として使える魔法カードかなにかだっただろうか。私の認識がおかしいのか、あるいは会社や社会の認識がおかしいのか。
 一度冷静になって辞書で調べてみることにする。
 
 こせい【個性】個個の人(物)をそれぞれ特徴づけている性格。「ーを生かす/強烈なー/ー豊かなー的」
 【新明解国語辞典第七版より抜粋】
 
 なるほど、個性。とても大事だ。大事なのは分かる。理屈は分かるがやはり納得がしきれない自分が居る。
 
 これが許されるならば私のお気持ちという名のM16アサルトライフルに装填された20発の7.62ミリNATO弾も個性で許されるのだろうか。通称”ほほえみデブ”ことレナードの様な表情を浮かべながら「全ての不義に鉄槌を」という精神でその引き金を引きまくってやりたいところだが、それは多分許されないだろうな、という気持ちが申し訳程度のセーフティになっている。
 にしても迷わず引き金が引ける人間が結構多い気がしてならない。引き金を引いたもの勝ちというのも個性の一つなのか?
 そしてこういう”引き金を躊躇なく引く”様な人間のせいでマイノリティ達は一層カミングアウトし辛い環境になっていく要因に思えてならない。
 
 夏に、行きつけのダイナーのオーナーの方から服屋を紹介された。「別に、買わなくていいから。ただ好きな系統じゃないかなって」と勧められたその服屋は田舎の大通りの後半の通りが寂れ始める手前あたりに、景色に同化する様に建つビル(ビルと自称しているがビル感はない)の一階にあった。
 そこは一見すると田舎によくある、年中「SALE 」というのぼりが上がっているタイプの自称ブティックに見えたが中身は普通の小洒落たセレクトショップという様な店だった。
 店内で私を待ち構えて居たのはチュルチュルパーマのヒョロリとした兄ちゃんだった。
 雑談をはさみながら店内をぐるりとまわる中で「え、おいくつなんですか?」という質問が投げかけられた。私がそれに答え、自分よりも一つ年下と知るやいなや「まじで?どこ中??」とへらへらと聞いてきた。 
 「どこ中?」なんてそう聞くセリフではない。高校進学時がヤンキー漫画でしか見ないセリフだ。それから彼はずっと私に対してタメ口であった。この妙な距離の詰め方に対して、普段の私であれば不快感を抱くことも少なくないが彼に対しては何故かさほど違和感がない。「おいおいおい、えらいグイグイくるじゃん?」という気持ちはあるがそれ以上はない。
 因みにその彼はつい先日十数年勤めたその店を辞めて造園業に転職した。その後に親族の営む教会を継ぐらしい。情報量の多さと彼が牧師になる姿が想像できない。

 私にとって個性とはそういうものである。
 
 なんか、もう、そうだよな。というような。そうとしか言えない様な。私の貧相な語彙力では正確に言語化出来ないのが悔しいが。少なくとも個性は押し付けるものではない。
 それを前に、受け入れられなければ距離をおく権利を有しているものが個性であるべきだ。受け入れさせられる、というものはもはや暴力である。
 昨今、暴力的な「多様性」という言葉が増えすぎている。そんな事が許されるのか、という疑問が絶えないが許されているのが実情だ。
 そのせいで許されるべきもが許されず、公言する事が難しい社会が構築されている。一部の異常者が権利というパッケージに包まれた狂気を振り回して人をぶん殴るせいで権利を使えない人がいる。
 そのせいで苦しむ人が増えて・・・といった具合に社会は一層生きづらくなる。
 
 そんなことが許されるなら私の自認は14歳で働かずに、それでいて反抗期だから酒と煙草に溺れ、日々ジャズとロックを聴いて好きなことばかりをして生きていきたい。そして猫ちゃんを抱いて眠りたい。
 それでも私はそんな主張をした所で誰にも見向きもされず路上生活者となって身元不明人の遺体として無縁仏として焼かれる未来しかないのでなんとか今の生活にしがみついている(たまにもう無縁仏として焼かれちゃおっかな、という気持ちにもなるが)。
 最悪の事態に飛び込む勇気がないから私は今のこのパッとしないしがみつくのか、あるいは正当な自認でないからそう主張できないのか。
 だから私はトランスエイジに対して厳しく当たってしまうのだろうか。もう私の認識としての社会通念上の常識なのか、純粋な社会通念上の常識なのかが分からない。考えれば考えるほどにドツボにハマる。
 もう何も考えたくない。
 
 実家の猫ちゃんに顔を埋めながら「ふぁああああぁあぁあああぁっぁぁぁぁぁあっぁぁぁ!」と叫びたい。
 
 きっとそんなことをしたら猫ちゃんは「ゃむ」と迷惑そうな声を上げて、てててて、とにげてしまうんだろうな、と思う。とても寂しい。
 もう人間として生きていくのに限界を感じている。なぜこんな想いをしながら生きていかねばならんのか。
 
 こんな想いを抱えている人間はどれくらい居るのだろう。

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