”悲惨”な事故

 ニュースサイトで公開されている動画で見知った道が写っていた。午前二時、ガードパイプに軽乗用車が衝突し横転、炎上し夜の道を照らしている。街路樹には車内から勢いよく飛び出したぬいぐるみが引っ掛かり、ぶら下がっていた。
 
 炎上した車内からは母親の遺体。車外に投げ出された2歳の娘は出血性ショック死。ただ一人、4歳の娘が車内から救出された。
 事故の直前、助手席には父親も同乗していたが母親と車内でトラブルとなり車を降りた。その際、二人共飲酒をしていたという。
 

 報道から数日後、事故現場を訪れてみると車が衝突したガードパイプはちょうど一小節分が跡形もなくなっており次の小節のガードパイプは黒い煤で汚れ、反射板は溶け落ちていた。
 街路樹もところどころ焦げ、報道カメラに映されていた街路樹にぶら下がるぬいぐるみはなくなっていた。その代わりにお菓子や献花がその街路樹の下には積み上げられていた。
 そして小さな献花は風で飛ばされ、路上でアスファルトと一体化していた。

 事故の跡を見てみると、中々のスピードが出ていた様だったが私が訪れた頃にはもう動画で見たような悲惨な光景を1割程も感じられなかった。
 事故現場に至る道路はそれなりの傾斜になっており、それなりに道幅も広い為にスピードが出やすい道でもある。実際、その道を走っていると2回に1回はスピードの向こう側を目指すドライバーを見る。

 私が訪れたタイミングでは2組の夫婦が献花しており、涙を流しながら何やら話していた。その横で、事故現場のすぐ横にあるラーメン屋から出てくる家族が「チャーハンは多かった!」と楽しそうに笑っていた。薄曇りで少し冷たい風が吹き抜ける心地よい昼下がりであった。
 
 事故現場は見通しの良い2車線の道路が交わる交差点で、先述した通り明るい時間でもそこそこの速度で車が行き交う大きめの通りだ。そしてこのあたりは深夜帯になるとならず者たちが結構な速度で走り回る地域でもある。つまりそういうタイプの田舎だ。この時期の夜にはカエルの合唱と彼らの排気音のセッションを聞くことが出来る。
 そんな事件現場周辺にはそこそこな数の居酒屋があるが、そういった田舎の居酒屋は”車がないと行きづらい”立地にあったりする。いつもそういった店の前を通る度に「ここのお客さん、どうやってここまで来てどうやって帰っていくんだろう」といつも思う。
 一応、店側はドライバーには酒類を提供しないという張り紙や、レジには申し訳程度に代行運転やタクシー会社のカードが置いたりもしているが、その殆どがホコリを被り薄黄色に変色している。
 しかし今回の事故に関してはその時間まで営業している店がこの周辺に無いことと、真っ当な店であれば(そんな店がこの地域にあればだが)青少年育成条例の観点からその時間帯に子連れの家族を受け入れたりしないだろう。それらを踏まえると店で飲食をしたとは考えにくい。
 恐らく休日に仲間内なんかで集まって騒いだ帰りだろう。そう思うとこの事故に関してはその関係者についてもそのうち何らかの情報が出てきそうだ。
 亡くなった女性は27歳。一番上の子供は4歳となると23歳以前に結婚したのだろう。結婚を焦る人からすれば羨ましいと思えるかもしれないが、実際結婚した人からすると周りの人間が自由でキラキラした毎日を送っている様に見えるものだ。
 そういったフラストレーションを抱えて暮らす毎日の中で、飲みの場で何かちょっとしたきっかけで爆発したりしたのだろうか、などと想像してしまう。
 また、この家族の家と事故現場とそれに至る自動車の動線から見ると、どうやら帰路に起きた事故ではなさそうである。
 そもそも事故現場と家とで結構な距離が離れている。その上で自宅から離れる形で車を走らせている最中での事故である。
 自宅で飲酒した上で起きた事故という可能性もあるがそれでもどこか一つの目的地に向かっていたというには無理のあるルートに思える。夫婦喧嘩の末、夫を車から下ろして実家に帰ろうとでもしていたんじゃないかというストーリーを勝手に妄想してみる。
 なんだか有り得そうな話にも思えてきた。
 
 田舎で車がないと移動に困るといっても、飲酒運転というのはあってはならないことだが聞かない話ではない。結構当たり前な顔をしてそれを公言する人も居るし、これくらいなら大丈夫、と「ちょっとしか飲んでないから酔っていない」というおおよそ通らないような言い訳を振りかざす連中も少なくない。
 しかしこの事故はそれだけではない。二人の、それも幼い子供もその飲酒の場に同行していたのだ。
 午前二時はおおよそ子供を連れて出かける時間帯ではない。その時間に子供を連れて出かけるとしたら天体観測くらいのもだ。

 また、この事故で亡くなった子供は車外に投げ出されていたという。2歳であればチャイルドシートの着用が義務付けられているにも関わらず、車にはチャイルドシートがそもそも載って居なかったという。
 記者の取材に対し、近隣住民は「仲良く子供を抱っこしている姿をよく見た、そういう家族に見えなかった」と語っていたが、仲良く見えれば健全な家族であるということにはならない。なによりこの事故が起きた上でその発言を見るとその近隣住民の価値観すら疑ってしまう。 
 飲酒運転をする”そんな家族”であった人間たちからすればチャイルドシートの着用なんてそんなに大した問題ではないのだろう。どちらも「事故が起きなければ大丈夫」ということだ。
 しかし、本当に仲が良く家族を思いやる気持ちがあったならば安全面を考慮し、しっかりチャイルドシートの着用を行い飲酒運転などしなかっただろう。
 
 
 スリルなんてちょっとなら楽しみさ
 でもイライラすると事故が起きる
 へっちゃらさなんて知らん顔して
 走っているとそんな時
 事故がほら起きるよ いきなり来る

 
 きかんしゃトーマスでお馴染みの曲「じこはおこるさ」でもこう歌われている。
 まさにこれである。
 喧嘩してイライラして、飲酒運転もへっちゃらさなんて知らん顔して走っていた結果、いきなり来た訳だ。
 
 こういった車の運転に関わる法律は安全面を考慮して作られる。それに対し「今まで大丈夫だったから」という浅はかな考えで彼らはその壁を平気で超えていく。そして最後には「今まで大丈夫だったから」も「今後はやりません」とも、何も言えないところに行くことになる。そういった末路である今回の事件での不幸中の幸いは亡くなった女性に関しては飲酒運転などの行為を「もう出来ない」というところだろうか。

 なにより、そこに巻き込まれた子供が可哀想でならない。
 そして、”その環境で、その親に育てられた”という事実が何より根深い問題である。
 昨今、多様性という言葉を履き違えて子育てなんかにもそういう考えを用いて育児放棄や深夜に飲酒の場に子供を連れ出し、その後飲酒運転で帰宅するような家庭状況であってもそれを「あくまでも個人的な話で個性の範疇」じみた価値観を持つ人達が増えたような気がする。
 「私の人生だから親として子どもの為だけに生きたくない」そういった考えがSNSで発信された事により、その文章のうわべだけを汲み取って騒ぐ連中も増えた。
 確かに子どものため”だけ”に生きるのは不健康極まりない。しかしだからといって自分のやりたいことのため”だけ”に生きるのもそれと同じくらい不健全である。なぜ両極端を攻めたがるのか。
 
 飲酒運転をしたからこの事故は起きた訳ではない。そういう事を良しとする”ルーズ”な思考回路の持ち主だったという事が一番の要因だ。
 どれだけ飲酒運転を厳罰化したとしても、こういう手合の人間達は「罰則がどれだけ厳しくなって、どれだけやってはいけないことか」という事を理解しない。あるいは理解したとしても「人に迷惑を掛けなければいいんでしょ」という論点のずれた解釈をする。
 この思考回路そのものは結構目にする。その物事の本質ではなく表層だけを見て、それと類似した事象を引用したり、ある種の連想ゲーム的に全く別の解釈を行う。
 そういった背景がこの事故には隠れているのではないだろうか。
 
 その事故を見て、「何か事情があったのかも」「旦那と喧嘩した事が発端となった無理心中では」などと様々な憶測が飛び交っていた。この場合に於いてはバックボーンにどんなストーリーが隠れていようと本質的な問題は何も変わらない。
 もし、ジャック・ニコルソンがシャイニング的なスマイルを浮かべながら拳銃を突きつけて脅して彼らにそうさせたというストーリーがなければこれは覆らないだろう。
 
 少し前に親ガチャという言葉が話題になった。親を選べないという事実をスマホゲームに擬えて揶揄した言葉である。この言葉については様々な意見があるがこの場合には間違いなく親ガチャが外れたという例といっていいだろう。
 最近の若者の間で使われる際には本当に些細な事でその言葉を用いていたりもして違和感を感じる事が少なくないが、この一件についてはもう議論の余地はないだろう。
 
 もっとも、親ガチャというものがあるように子ガチャも間違いなくあるように思う。
 すくなくとも私は間違いなく子ガチャとしてハズレであるという自覚がある。両親もまさかこんな子供が産まれてきてこんな育ち方をするとは思っても見なかっただろう。
 思い返してみると両親は両親なりに試行錯誤していたにも関わらず私はそれを見事にぶち壊してきた。せめてもの救いは今のところ誰も殺していないし罪歴が無いことくらいだろう。
 それでもなんとか生きていて今のところ母親とはちょうど良い距離感で、実家に帰る度に(恐らく)仲良くやれているので良しとしたい。
 父親は単身赴任で遠くに居り、その先で浮気疑惑がありながらもガンになり腎臓の一つを摘出し、それでもなんだか楽しそうにやっているので良いだろう。
 
 家族との関わりや子どもの教育など、ケースバイケースであるためにその手法は千差万別である。簡単に人のやり方を否定するのは良くないことであるが、それでもやはりやるべき最低限の水準は守らなければいけない。

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