人間か動物か。進化した人の一例 あるいは新しいカタチのアンガーマネジメント

 伊勢海老とウツボは奇妙な共生関係にある。伊勢海老は天敵であるタコに襲われると音を出してウツボを呼ぶ。呼ばれたウツボはタコを捕食する為、そのスキをついて伊勢海老は逃げるのだ。

 しかしウツボは伊勢海老の事も食べる。
 
 共生といえば共生のような気もするがなんだか成り立っていないような気もする。それを知って私がまず最初に思い浮かべたのは田舎のちょっといき過ぎたヤンキーたちである。
 末端の喧嘩において先輩の名前を出すことで難を逃れることがあるが先輩達はその末端たちに対して上納金のようなものを求めたり原付きを無理やり売りつけたりする。なんならたまに憂さ晴らしなんかで襲われる。
 構図として全く同じである。
 
 海のギャングという異名を持つウツボと田舎のギャングであるヤンキー、繋がっている。
 
 生き物の習性なんかを調べていると現代の社会で生きていて見るような光景がちらつくようなものが多々ある。人間も動物であるということをそういった所で垣間見るとなんだか安心する。
 
 進化生物学の理論の一つに「ランナウェイ仮説」というものがある。オス、あるいはメスのある形質に対する趣向が集団内に広まると、その形質を持っている異性しか配偶相手として選ばれなくなるプロセスが働くというものだ。
 異性がどういう形質を好みとするかは、生物学的な意味や生存競争上の有用性などとは関係せず、この趣向により獲得した形質は実用的でない場合も多い。
 実質的に生存するための機能に関係なく、場合によってはその生存性を脅かすほどの派手さを有している鳥の一部もこれに含まれる。
 ヤンキーの襟足、病的な車高の低さを有した車、そういった一部の人間達の間で根強く指示されている文化と近いものを感じる。もはや文化の暴走であるように傍目には映る。
 車の車高は低いほうがかっこいいと思う群れの中では最終的にはコンビニエンスストアにも入れない車が生まれたりする。目的地にたどり着くことの出来ない移動手段。しかしそれがステータスであり群れの中での「強さ」だ。実質的な強さであれば4WDの車高が高い車にたどり着くはずだ。
 進化とは必ずしも洗練されていく訳では無い。
 
 進化とはたまたまそういう特性をもったり、あるいはそういう行動を取ったものが生き残り子孫を残してきたというある種の偶然の積み重ねによる賜物だ。そうでなければユーカリを食べて一日の殆どを意識のないまま過ごすコアラの様な生き物は生まれまい。挙句の果てにコアラはユーカリを葉っぱ単体で出されてもそれをユーカリとして認識することが出来ない。
 その事実だけを聞くとイカれている様に思えてならないが果たしてコアラはイカれているのだろうか?
 
 例えば、目の前にうっすら穀物と紙の混合物の様な香りのするベチャベチャの白っぽい何かがあったとする。それがなにかわからない状態でそれを食べ物だと認識することが出来るだろうか。
 それがオートミールだと分からなければ食物と判断して食べることが出来ない人間が多数だと思う。それが本当に食べられて毒性のないものだという保証がどこにもない状況ではなおさらだ。
 よしんば、それがオートミールに酷似していおり匂いも概ねそれだとわかっていたとしても”それが本当に安全”だという保証がなければたべられまい。
 それが安全な食べ物だとわかっている人間からすれば「食べないなんて馬鹿だ」と言えるがわからない人間からしたら恐怖でしか無い。
 なんならそれが「何か」わからない上で食べ始める人間のほうがイカれている。
 
 私の勤める職場のヒステリックな事務員を筆頭に、世界の果て的な職場では主語や最低限の人らしい礼節や倫理、あるいはその全てを持たない従業員が多数在籍している。
 従業員たちが失いし(あるいは持ち得ない)それらは人間として生きていく上で必要となる素質であるし、人類の歴史の中でも大きな発明といって良い。言語を生み出し、コミュニケーションを取ることで人類は発展してきた。そして礼節や倫理というもので、人は人らしくあり得る。
 
 
 少し前に職場で持ち場の変更が行われた。おざなりという言葉を使うのも憚れる様な引継を受け、日常は無慈悲にまわりはじめた。
 幸い、そんな引き継ぎでも致命的な事故などは起きず「糞がぁッ!」と心のなかでブチギレる程度の問題で済んだ。
 月末が近づいてきた為、その持ち場での特別な月末処理(大概の持ち場ではそういったローカルルールのようなものが存在する)にどのようなものがあるかを前担当者に確認した。

「特にありません。〇〇の数量は大体で出してます。先月の年末チェック用紙を事務所で貰えると思いますので良かったらそちらを見てください。お願いします」
 返ってきたのがこれである。最後の謎の懇願はなんなのだろうか。
 恐らく「(以上、ご査収のほどよろしく)お願い(いた)します」ということだろう。省略をしすぎて本来の形を失う日本語というのはよく見るがここまで個性的な省略は珍しい。なかなかに興味深い。
 
 まず、年末チェック用紙なるものが謎である。
 私が入社して数年、そのようなものの名前を聞いたことがない。恐らく「年末(に行った棚卸しの)チェック用紙」ということだろう。棚卸し用紙ではなく「チェック」という表現をなぜ用いたのかは謎である。きっと横文字を使うとカッコいいとでも思ったのだろう。
 そもそも冒頭に「特にありません」と言っておきながらその後に語られる月末処理というのも意味がわからない。
 あるではないか。
 また、大体で”出す”というのはその謎のチェック用紙に記入するということだろう。少なくとも月末処理として何かしらが必要になるという事はわかった。最低限それが分かれば十分である。
 彼にこれ以上聞いたところで私の苛立ちが増すだけなので諦めて別の方法で確認を取り、棚卸しを終えた。
 彼は今年で28歳になる。28年、この日本で日本語話者として暮らしていながらこの日本語能力である。一体どの様な環境下でどの様な言葉を用いてきたのだろう。世界は不思議に満ちている。

 
 この一連の引き継ぎ(らしきもの)から彼のお脳の問題を強く感じられ、おおよそ人の持つそれとは思えない。しかしこれも怒りという感情を取り払い、俯瞰して見てみるとこの行動というものが理解出来てくる。
 諍いというものは相手を理解しようとしない姿勢から生まれる。大概は認識のちょっとした違いが最終的に大きなすれ違いとなり、その段になって理解しようとしても根っこがどこにあるのかがわからなくなる。その前に相手を理解しようとすることが大切だ。
 
 この場合、私としては「引き継ぎをしてほしい」というボールを彼に投げた。そのつもりで投げているので「引き継ぎの内容が返ってくる」と思っている。だからまともに引き継ぎが行われないことに対して憤りを感じる。
 しかし逆に、彼は「引き継ぎをしてほしい」という私の要望に対して「勝手に調べてどうにかしてくれ」という返事をしているわけだ。
 確かに引き継ぎという業務は面倒くさい。好んでやりたい業務ではない。お賃金をもらっている以上それは義務だという主張もあるが逆にお賃金もらっている以上業務として自身で調べてやれという主張も無いとは言い切れない。社会通念上の常識ではどうか、ということは別として。
 
 そしてなぜ、正しい日本語を用いて意味のある言葉の伝達を行わないのか、というところだが、彼にとっては”引き継ぎ”だったり、直接的な言葉を用いた”拒否”という意味合いをもった言葉を発する必要がないのだ。口からそれらしい音を発していれば周りが勝手に動いてきた。今までそういう生き方をしてきて、そういう生き方をしてきた(日本の法律上での)人間に育てられたのだ。
 それらは一見するとただの救いようのない馬鹿である。出来の悪いファビーのようなものだ。なんならファービーのほうが一部の層から収集品として価値が見出されそうだ。しかし、一定数存在するこういった手合の人間は、決してただのどうしようもない肉人形などではなく、「彼らなりに生きてきた上で身についてきた特性」を持っているだけにほかならない。たまたまそういう手法を用いていたら直面した問題を避けることが出来た。だからその手法に特化した。というある種の進化である。
 言語能力を筆頭に思考能力、その他諸々を失ったのではなく捨てたのである。現代社会において求められる能力というのは多岐にわたる。その中で自身の置かれている環境に適応しようとした結果、考えることを捨て生き延びる道を選んだ(選ぶ、という表現は些か適切さに欠けるが便宜上の表現として)ということだ。
 スマートフォンやコンピュータの発展により、漢字が読めるが書けない、という人間が増えたのは「脳のメモリを節約し他のことに活かしている」訳だ。それもそれで現代社会に適応するために一部の人間がしているある種の進化の一例とも言えるだろう。ただ馬鹿になったわけではなく、理由があって適応しているのだ。
 目を向けると様々なところで、文化や時代からくる環境に合わせて人間も変化している。
 

 アオバトは5月〜10月頃になると海水を飲みにはるばる森林から海へと空を飛ぶ。その理由は諸説あるがナトリウムが不足するから、というものがあるが一番有力視されている。しかし飼育下に於いては塩分を必要としない。しかし野生下でアオバトはそういった生態へと進化してきた。
 そして海水を飲みに行く過程で天敵となる鳥類に襲われ、車にハネられ、海についても波にさらわれて亡くなる事も少なくない。
 進化したからといってその個体が劇的に強くなるというわけではない。その特性により命を落とすことだってある。
 
 言語能力や思考能力を捨てた者達も、運悪くどうにも立ち回れなくなり電気、水道、ガスの止まった4畳半で畳のシミになる者もすくなくない。
 だからといってそういう人間が絶対にそういった末路を歩むわけではない。逆にちゃんとした言語能力、思考能力を持った人間も悲しい悲しい結末にたどり着くということもある。
 結局は人間も動物だ。生まれて生きて死んでいく。ただそれだけが間違いの無い事実であり、それ以上はない。
 あとはそこに勝手に人間が名前や優劣を付けて騒いでいるだけだ。
 
 だから私も勝手に騒がせて頂く。件の彼には人生における全てのツケを背負い、人生の最後の瞬間を絶望の灰が降り積もる子供部屋で”なぜこうなったのか”を理解できないまま、世界を呪いながら精神的な孤独の中で過ごしてほしい。できれば三日以内に。そうすれば私は彼の葬儀に白のネクタイを締めて参列しシャンパンの中のシャンパンこと「クリスタル」で乾杯する。ジェイ・ギャツビーの様な笑顔を浮かべつつ。
 
 スコール

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