おちんちん再考

 男根のメタファーという表現を耳にした事がある人は少なくないだろう。 
 
 その表現の初出はフロイトの夢診断であったとされる。その中でフロイトは様々なものをおちんちんのメタファーとしていた。
 その中で、一際私の目を引いたものが「鍵」である。

 鍵とは例外はあれど、概ね棒状であり挿入する事で解錠という機能を発揮するものだ。
 その解釈に些かばかりこじつけがすぎるのでは、と思ったが「挿入する事が目的ではなく、挿入する(解錠又は施錠)ことで得られるものが目的である」という見方をすれば納得出来たかはさておき、理解は出来なくはなかった。
 鍵というものは鍵そのものに特別な価値はないものの、施錠されることで守られるモノという要素が介入した時点でその価値の質が変わってくる。

 それはどこか示唆に富んでいるような気もする。
 
おちんちん、ペニス、ちんこ、バナナ、きゅうり、サラミ、ソーセージ、陰茎、男根、ちんころ、ビッグ・ベン、第三の足、アームストロング砲・・・・。
 こうやって男性器の俗称、呼び名などを陳列させると映画「フォー・ルームス」を思い出す。

 ちくま文庫から出ている官能小説用語表現辞典では男性器の表現として367(恐らく数え間違えているがそれでもこれに近い膨大な数だ。そしてもう数えたくない。)もの用例が立項されている。
 おちんちんは一つだけなのにそれを表す言葉は表現者の想像力次第で増えていく。さながらエントロピー増大のようである。
 
 とはいえ、そういった官能小説の表現や、増加する類の表現の殆どはメタファーとしての表現である。しかし、それでもメタファーを用いてでも他者とは違う表現をする必要があった、というのは中々に興味深い。
 おちんちんのメタファーとしてバナナを起用する事は出来るがバナナのメタファーとしておちんちんを用いることは出来ない。それは決して飲食物であるという理由だけではないだろう。
 そもそもバナナを他の言葉を用いて表現する必要性がないのだ。
 
 必要や状況に応じて表現は広がっていく。
 
 その幅広い表現の始まりはどこにあるのだろう。
 古事記では「成り成りて成り余れる処」という表現が見つかっている。これはもう現代におけるおちんちん的なものを一切連想させることは出来ない。一体何に成るというのだ。
 また、古代では「ほこ」という表現もあり、その後の江戸時代では「屁子」「珍宝」「魔羅」「てれつく」「陰茎」など幅広い表現が収集されている。
 この中で一番馴染み深い表現である「陰茎」は室町時代には使われており「下学集」に立項されている。
 そこから、長きに渡り使われてきた言葉として一番根付いている”はじまりの言葉”としては「陰茎」として良いだろう。
 当時からおちんちんの呼び名は多岐にわたっていた様で、方言以外にも様々な呼び名が付与されていた事が分かる。
 ちなみに、祭事などで未だによく用いられる表現である「魔羅」は仏教の梵語で「修行を妨げ人の心を惑わすもの」という意味で、そこから転じて僧侶が隠語として使うようになったという説がある。
 
 そんなおちんちんは古くから信仰の対象にもされてきた。生殖器崇拝の一つとして、女性器とならび生殖器を神聖視し多産や豊穣など願って信仰や崇拝の対象とされてきた。
 日本で有名なものとしては神奈川県の金山神社のかなまら祭、山口県の麻羅観音、兵庫県の雌岡山に宮崎県の陰陽石などが挙げられる。他にもおちんちんを祀る祭りや寺は存在する。
 そのような信仰・崇拝について調べていた所、大変興味深かったのはそういった祭事には比較的歴史の浅いものも多数存在し、高度経済成長期頃には10箇所以上産まれていたという。
 その中には明治期に近代化の波に消されていったものがその頃になって復活したという例もあるが、全く新しく縁もゆかりもないところに(こじつけとして)突如として打ち出されたという例もある。
 それらは地元の話題作りとして観光客誘致を目的としたものが多かった様だ。
 それでもやはりその由来となった生殖器崇拝というものは確かに存在する。そして観光客誘致として起用された例としても”魅力”になりうる力をおちんちんが有しており、それにあやかろうとしたというのは間違えない事実だろう。
 
 そんな祭事の中に素盞嗚神社の夏祭りがある。その祭りでは「おめんさん」と呼ばれる天狗の面と衣装を纏った男性が男性器をモチーフとした棒を持って女性や子供を追い回すという中々に衝撃的な内容の祭りである。その棒で軽くつつくことで厄払いを行うというものだ。
 その祭りの起源は、かつて赤痢に苦しんだ村が厄除けの為に始めたものと言われている。
 それが歴史の中で少しずつ形を変え、現代の姿へと変わってきた。祭事が始まった当初はただの棒が祭事に使われていたが当時の若者が悪ふざけでその先端をおちんちんの形に削ったことで今の形になったらしい。

 その変化が発端か、祭りに一種の暴力性のようなものが産まれ始めた。

 平成初期頃になると「おめんさん」による今で言うところの準強制わいせつじみた問題行動が続いたという。女性を追いかけ回すだけではなく家に上がり込んだり身体をまさぐるという様な事が多発し、警察沙汰などにもなった。
 棒がおちんちんとしての形を直接的に付与される事によって暴力という力が産まれた様にも見える。しかし幸いそういった暴力性は問題視されてからはなりを潜め、今ではその様なことはないという。
 興味深い事にそういった事態が起き、沈静化した後にその地のとある宿泊施設ではその棒は「女性が撫でると子宝に恵まれる」とそれまでになかった新しいご利益が付与され、祀られ始めたという例が見つかった。これは行き場を失った力を他のベクトルに活かそうとする動きにも見える。
 
 また、生殖器を信仰、崇拝する文化は日本だけでなく世界中に存在している。
 
 そもそも生殖器というものは生命が繁栄(というか繁殖)する上で(恐らく)もっとも重要なものである。それ故か、科学が発展しメカニズムが解明されるまでは神聖なものとして見られていたり、今では考えられないような説が唱えられていたりもしていた。
 実際、オランダの科学者ハルトソーケルは1694年に精子の中に小人が体育座りをしている姿をとらえ、それにホムンクルスと名付けたという。そこから、人は精子の中に居り女性の体内という環境のもとで大きくなると考えられていたりもした。
 今であればとんでもない話だが、それらは未知であるものをそれを知る術の無いものが無いなりに努力した結果だ。
 
 おちんちんに関してもそうだ。

 持ち主の意志に関わらず状況に応じて状態が大きく変化するという特性を持ち、生命の誕生の上で必要になるという神秘的にも映る要素を持っている。そのメカニズムが解明されるまでの間、そういったものは未知の存在となっていた。
 状態変化する特性や生命の誕生というものは、自分自身の身体に付いていたとしても本人の意志とはまた別の力が働いているように感じられる。そこからはどこか他人的な趣すら感じられる。
 そして我々(おちんちん保持者)は往々にしてそれを”嫌というほどに”実感する。その認知はおちんちんに対し「ムスコ」というどこか他人チックな表現を用いる事があることからも強く感じられる。

 そういった存在に対し、人が理解しようとする為に本質からかけ離れた論説で説明をつけようとするのは不自然なことではないだろう。
 実際、未知なものが持つ特性や要素に対し、それを説明付ける為に(あるいはそれを生活に落とし込むために)事実とは大きく異なる俗信のようなものが産まれてきた例は様々な分野に於いて少なくはない。
 それが男根崇拝を生み出した一つの要因となるのではないだろうか。

 おちんちんは本来の存在の枠を超えて、イメージだけが肥大していったのだ。

 そんなイメージが肥大化していくおちんちんも古代ギリシアでは男性的な美しさの基準の一つとして小さなおちんちんのほうが良いとされていたという。
 歴史学者ケネス・J・ドーヴァー氏によると大きなおちんちんは「愚かさ」「色欲」「醜さ」を連想させるものであったという。その為小さなおちんちんの方が文化的な価値が置かれていたとのことだ。
 これは現代の巨根至上主義的価値観からは大きく離れたものである。時代や文化が変わると人のコンプレックスも大きく変わるという一例だろう。
 実際、世界には自身のおちんちんのサイズを悩みに思っている男性が多い様で、様々な質問サイトなどで大きくする方法についての質問が投げかけられており、それと同時に怪しいおちんちん強壮剤的なものの広告もいたるところで目にする。
 古代ギリシャとは形が違うとはいえ、やはり大きさというファクターは人々の目に付きやすいという性質上コンプレックスとして上位に君臨し続けている様だ。
 しかし、そんな悩みを抱えていたとしても霊長類の中で我々ホモ・サピエンスは最大サイズのおちんちんを携えた種である。
 そうなった要因として、我々は二足歩行へと進化し、立ち上がり雌からおちんちんがよく見える様になったことで巨大化したのではないか、という説がある。
 ゴリラやオランウータンなどは一夫多妻の配偶型で、闘争によりその地位を得るせいか彼らの持つおちんちんは約3センチメールと必要最低限のサイズである。森の賢者と呼ばれるゴリラは古代ギリシャ的価値観からしても賢者であるようだ。
 とはいえ、そんな巨大化という進化を遂げた我々の霊長類最大おちんちんの下には頼りない皮にぞんざいに包まれただけの、出来損ないの大福が如き水平二連空冷式おきんたまというむき出しと言ってもいい内臓がある。それを外部からの刺激から守るという意図もあり早々に衣服というベールによって包み隠されてしまっている為、その進化が妥当なものであったのかというのは些かばかり疑問が残る。
 しかしそういった二足歩行になった事で目につきやすくなったという背景を鑑みると「男性の象徴」としておちんちんが認識されていることにも納得がいく。

 さて、そんなおちんちんだが呼び名として比較的一般的なものとして「ペニス」「(お)ちんこ」「(お)ちんちん」「(お)ちんぽ」などが挙げられる。また些かニッチではあるが、それに「男根」「ちんぽこ」「ぽこちん」や若年層が使用するものとして「おにんにん」「てぃんてぃん」と続く。
 口語表現として多く耳にするのは「(お)ちんこ」「(お)ちんちん」辺りだろう。
 これについてはそもそもおちんちんについて口頭で表現することがあまりにも少ない事と、聞き込み調査をする気概の欠如、そして聞き込みを行った場合の対象者に起きる羞恥心から正確なサンプルが得られないのでは、と推測した事から私の主観のみで推察していく。
 ちなみに村上春樹氏の著作、「1Q84」では登場人物である青豆による口語表現として「おちんちん」が起用されていた。興味深いのは同人物が語りべとなる章に於いて口語表現でないものは「ペニス」とされていた。
 また、同著作「風の歌を聴け」では主人公”僕”は主にペニスと表現しており、作中では「レーゾン・デートゥル」という表現も用いられていた。
 少ないサンプルの一つではあるが口語表現とそうでないものとで使い分けを行っている例の一つである。
 

 口語表現として最もポピュラーな「ちんこ」「ちんちん」についてだが、後者は「ちんこ」の幼児言葉であり、言葉を分解し発音のし易い二音節の「ちん」の部分を繰り返すという反復語の一種であろう。本稿において「ちんちん」は「ちんこ」をカジュアルな表現にしたもの、という解釈で考察していく。
 また、口語表現(音)として我々の耳に届くおちんちんの姿というのは恣意的に与えられた人為的な姿でもある。
 「ちんこ」及び「ちんちん」「ちんぽ」そして「ペニス」は音象徴という視点から見ると比較的小さい印象を持つ語感となる様に思う。少なくとも「ちんこ」「ちんちん」と「男根」とでは抱く印象が大きく違う。

 音象徴とは、音が特定のイメージを呼び起こす現象のことで「ぱくぱく」と「ばくばく」とでは物を食べているときの効果音としても印象が大きく変わってくるという様なものだ。これは対象の名前に対して感じる印象についても同様に現れる。

 「ちんぽ」という表現は「ちんぼ(近松門左衛門の浄瑠璃で初めて使われたとされるが産まれてこの方聞いたことがない)」や「ちんぼー」から派生したものという説や「珍宝」から派生したという説など様々な意見が飛び交っているが、本稿では「ちんこ」という表現の幼児語として「こ」が「ぽ」に置換されたものとして考察を進める。
 「ちんぽ」という表現に含まれる「ぽ」などの両唇破裂音は幼児語に多く見られるもので、川原繁人先生の「プリキュア名における両唇音の音象徴Ⅱ」では「両唇音」=「赤ちゃん」=「かわいい」=「プリキュア」という連 想が働いている可能性を示唆されていた。
 そこから、幼児及び子供が使用する場合を除いて「ちんぽ」という表現を用いる際には「可愛らしさ」だったり「アンマッチさ」を求めて使用されている事が推測できる。
 「ちんぽ」という表現からはカジュアルな表現としての「ちんこ」を一層デフォルメすることで、可愛らしさやあるいはそれを発話する人間から滑稽さを生み出す意図がある様に思われる。
 また、音象徴という観点から見ても「ちんぽ」同様、日常的に使う口語表現においてのおちんちんからは、音が生み出す「強さ」というものはあまり感じられない。
 それはおちんちんから「力」や「威圧感」のようなものを意図的に奪っているとも言えるのではないだろうか。
 
 実際、官能小説用語表現辞典でも用例として臨戦態勢時の表現として「大業物」「凶暴な肉機関」「剛茎」など濁音を含めた重厚感を連想させるものが多く立項されていた。他にも「鉄梃魔羅」など字面の物々しさが目立つ。
 そこからはどこか「力」を誇示しようとする様が見て取れ、祭事などでよく使われる「魔羅(マラ)」からも同様の意図のようなものを感じられる。

 そういった「力」のようなものを奪う必要性はどこから産まれたのか。
 

 民俗学において「御霊(ごびょう)」「荒神(こうじん)」というものがある。それらは非常に力を持った存在で人々に災いをなすが、祭り上げる事で人に対して都合の良い神に転化させる事で災いを遠ざけご利益を得ようという信仰の一種だ。
 これは先述した素盞嗚神社の夏祭りにおけるおちんちんを模した棒が、元は厄払いを目的とされていたが不祥事の後、「安産祈願」というものに力のベクトルを変化させたという事象に関しても「力のベクトルを恣意的に変化させる」という実例であるように思える。

 そういった荒神説話の起源として民間説話の粋ではあったりするものの、落人がその地の荒神となるという話がいくつか存在する。そこでは落人は災いを引き起こす力を持っており、その力を何かしらのご利益に繋げることで荒神となっていく例が見て取れた。そういった説話の中では落人の墓が後に祠だったり信仰の対象となる事がある。
 
 そこから推察するにおちんちんはその持ち主の持つ何かしらの墓標だったのでは無いだろうか。

 結婚し家族の為に働く男性にとっての単身者を見て想像する自由な暮らし。孤独な単身者にとっての温かい家庭を作る喜び。女性経験の無い男性にとってのまだ見ぬ世界。そんな胡蝶の夢が眠る墓標こそがおちんちんなのかもしれない。
 
 そんな夢の上に立つ墓標すらも大きさや形などでコンプレックスになっているという事実と、実際の物質的な大きさと神格化されて肥大化しすぎたイメージとのギャップはどこか珍妙であり、滑稽だ。
 その墓標が信仰の対象となり、その墓標そのものが持つ男性的な荒々しい力が神格化された結果が男根信仰とへと繋がっていくのではないだろうか。それは落人が荒神となる経緯と共通している点といえるだろう。
 その一連の背景からおちんちんとは擬似的な神に近い存在ではないか、という仮説が産まれる。
 
 おちんちんと神の距離の近さを示すのはこの仮説だけではない。

 ヒンドゥー教の神であるシヴァは創造と破壊そして再生の神として知られている。
 そんなシヴァはリンガをシンボルとしている。リンガとは男性器を抽象化したもので、シヴァにまつわるもののいたるところでおちんちんを強調したそれを目にする。
 また、インダス文明のモヘンジョ・ダロから発掘された印章には屹立したおちんちんを強調する人物が描かれている。一部の学者はそれを「シヴァの前身となる存在ではないか」と主張しており、それほどまでにシヴァとおちんちんは密接な関係性にある。(誤解のない様補足するが他にも牛や三日月などのシヴァの持つ特徴などが印章に記されていた事もその主張に繋がっている。しかしおちんちんがシヴァのシンボルになっているというのもまた事実だ。)
 そしてシヴァは破壊と創造という相反するものが一つの器に同居する存在である。おちんちんも排泄器官という不浄な存在と生命の根源となりうる神聖な存在というかけ離れた二つの要素を持ち合わせている。

 荒神との共通点、シヴァとおちんちんとの関係性などからもおちんちんが神と限りなく近しい存在であるといえるのではないだろうか。
 
 人間の身体の一部でありながら神に近い存在となったおちんちん。
 
 その存在と対等に渡り合うために人々は「ちんこ」「ちんちん」「ちんぽ」などのカジュアルな表現が使う事で自分自身と近い存在に引きずり降ろした、という見方が出来る。
 祭事の際には恩恵を授かる為に祭り上げ神格化させ、呼称表現を変化させる。逆に日常生活の中では自分の管理下でコントロールするためにカジュアルな表現を用いて力を奪う。
 男性器や陰茎という表現をあまり使用しない理由として人々がおちんちんに対してフラットな感情を元に接する機会があまりにも少ないからだろう。
 そういったある種の宗教文化的な側面と多義性がおちんちんにはあるといえる。
 精神分析家であり哲学者のジャック・ラカンも男性の象徴としてのおちんちんと解剖学的なおちんちんとを別なものとして解釈しており、そこからもおちんちんの多義性を感じる。

 また、性欲旺盛な男性に対しての侮蔑の言葉として「チンコ脳」「チンコ頭」などの表現が若年層の間で使われている例がある。
 これは「性欲」という本来は脳が司る欲望による愚行の責任ををおちんちんに全て負わせているというのが分かる。これは古代ギリシャにおける短小至上主義的価値観とも通ずる価値感であろう。
 これは恐らく男性の肉体的な特徴と、生理現象として起きる本人の意志から乖離したおちんちんの反応が状態の変化として視覚的に現れやすいという二つの点から性にまつわる他者から見た愚かしいとされる行為、行動の根源がおちんちんにあるという価値観が産まれた実例に他ならない。

 そういった「チンコ脳」的発言の多くは女性から発せられることが多かった。それらの多くは「人」として接していた所で突如として相手(この場合は男性)が性行為を強要、あるいはそれだけを求めてきたということに対してのカウンターである。
 これは古代ギリシャにおける「愚かさの象徴」という価値観と近いものを感じる。

 それは哲学的思想などが大きく発展した古代ギリシャに於いて、自身の直接的な欲望というものが低俗として扱われていたという背景から産まれた価値観だろうか。
 小さいおちんちんの方が優れているとされていた古代ギリシャから時代や土地が変わり、巨根至上主義的価値観が蔓延る現代に於いてもおちんちんは愚かしさの象徴とされるという事から極端な思想というものがたどり着く先は同じだという哲学的な含みを感じられる。
 それは背景が変われど人間が直感的に感じるものが変わらないという事を示唆している。

 また、この侮蔑の言葉という場合に於いてもやはり使用される際に「男根脳」「マラ頭」という表現を用いらず「ちんこ脳」という比較的”力を奪われた姿”としておちんちんが現れているというのはやはり呼び名によっておちんちんから”力”を奪おうとする働きが機能しているという事が分かる。
 
 ただの人体の一部でありながら恣意的に力を与えられ、それを奪われる。責任の矛先として吊るし上げられる様は、さながら人々の罪を背負う聖人の様だ。
 
 ここまで、様々な分野の学問から引用し、好き勝手におちんちんを考察してきた。
 恐らく節度ある真っ当な人間であればこれを読んで「殆どがただのこじつけではないか」という感想を抱かれたと思う。もしそうでなく「おちんちんは神様だ」と本気で思い始めた方が居たら一度専門機関に相談される事をおすすめする。
 しかし、本稿を書くにあたり様々な文献、資料を参考にした。本稿はその中で私が「なんだか面白い(興味深い)」と思えたものを中心にパッチワークよろしくまとめたものである(そして面白いくらいに共通点が見つかった)。
 引用してきた参考資料は至って真面目なものばかりで、それらは間違いなく価値のあるものたちである。「おちんちん」というとなんだか低俗で下品で子供じみていて、と感じてしまいがちだが、その表層の馬鹿らしさの向こうには広い世界が広がっていた。そして、そこには知識や学問の無限の可能性を秘められている。
 
 もし、本稿が何かの間違いで誰かの目に留まり、その人が興味を惹かれる学問の分野を見つけ、知見を広げる一役を買ったり、専門家が研究の着想を得る足がかりとなって学問の発展に繋がったりすれば私としてはこの上ない喜びだ。

 そして本稿がそういった人々の知識欲を満たす為の”鍵”となれば幸いである。

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