見出し画像

本のことなど

#チコちゃんに叱られそう日記  25日目。

実家にいる。少しばかりの家事をして老父の話し相手をしている。常についているわけではないので、寝室にしている2階の部屋でごろごろしたり片付け物をしたりネットを見たりする時間もある。今日などどうしても提出しなければならない書類があったので仕事してしまった。メールの返事もアポ取り電話もリモートで出来てしまうのが残念だ。

実家にいると此岸と彼岸がとても近いのだけれど、先日たまたま読んだ本が高齢者の姿を見事に描写した内容で、たくさんのことを考えさせられた。

自分の読書メーターにはこんな風に書いた。

82歳のおもちさんは社交的で明るく友だちもたくさん。夫が特養に入ってしまい一人暮らしだが東京の娘も近所の嫁もよくしてくれる。都合の悪いことはちゃっかり忘れちゃう毎日。でも……(中略)……
おそらく軽い認知症であろう人の心うちがこんなにくっきりと描かれる、その著者の力量に驚く。高齢の親もこうだろうか、自分もこうなるのだろうか、人生の幸せってなんだろうといつまでも反芻する。

この本はいくつかの章から成っていてそれぞれに名詞3つの章題がついている。

「たんす、おべんと、クリスマス」

主人公おもちさんは何故自分がこの言葉をノートに書いたのがまったく思い出せない。思い出せないから、ま、いいやと明るく忘れ去っていく。その意味は最後になって明らかになるのだけれど、この3つの言葉をめぐって娘と交わされる会話はまさしく今のわたしと老父、あるいはもう言葉はないけれど老母との会話だ。此岸と彼岸、それは遠い別々の岸辺ではなくすぐそこにある地続きの岸だ。

この本はいわた書店の一万円選書で当たった中の1つで、たぶん、「カルテ」(選書に当たって自分のことをカルテとして書いて先方に送る。読書歴や人生でうれしかったこと、苦しかったことなど)に親の遠距離介護をしていると書いたから入れてもらったのかなと思う。

一万円選書にはこのほかにも介護、加齢関係の本が何冊か混じっていた。共感しまくる部分もあれば、我彼の違いに驚く部分もある。すぐに読んでしまうのが惜しくて一冊一冊少しずつ読んでいるので、あと三冊残っている。自宅に帰って読み始めるのが楽しみだ。

というように本が好きな森野だが、本を見ると買ってしまう、本屋があるとブラックホールのように吸い寄せられてしまう、今回だって空港に行って時間があったら本屋によって、寄ったからには何か買わずにいられないという悪い癖がある。今回実家についてふと見たら、さっき買って持ってきた同じ本がそこにあった。前回、自分が買って読み切れず置いていったものだ。

画像1

なんでこういうことするかなあ。
いや、実は初めてではないし、なんなら3冊別々に買ってしまった本もある。買ったら読まないといけないよね~ すぐに読まないからこういうことが起きるんだわ。

本で思い出した。あきらとさんが #本棚をさらし合おう をやっていて、参加したいのだけれど今は自宅じゃない。そこで寝ている部屋の本棚を撮ってみた。どーん!

画像2

ここはかつて弟の部屋だった。その前はわたしの部屋だった。残っている本棚には
(1)弟の本
(2)父が当座置いていった本(母の本含む)
(3)昔からあるわたしの本と帰省のたびに置いていった本
が混在している。

この画像だと、自分の本はちょうど真ん中にある「逃走論」(浅田彰)と「バクの飼い主めざして」(庄司薫)。なんかすごい懐かしい。これらの著者名って今じゃもうあまり聞かないよね。前者は評論で後者はエッセイ。

それから、その真上に横に差し込んである柚木麻子「3時のアッコちゃん」とぶたぶた2冊。これは帰省のたびに置いていったもの。左側に横積みしてある中の下から3冊目「ピーターパン」、5冊目と6冊目、9冊目の「ミラボー橋に消えた男」は大昔に買った記憶がある。その上に行って単行本の「ジーヴス」、上の方の3冊(満月珈琲店の星詠みが2冊、一万円選書でいただいた「ちいさな桃源郷」)、自分の本はそれくらいかな。あとは家族の誰かのもので、みんな勝手に好きな本を読んでいる。ちなみに浅田次郎の本が2セットずつあって、父が私と同じように「同じのを2度買っちゃった」のだと思われる。

こういうのを見てると、両親と弟それぞれの人生なんかをぼんやり考える。母は身体が弱く、よく横になって本を読んでいた。もう目も見えず意識もないけれど、何か読み聞かせたらもしかしておぼろげに聞いているかもしれない。まったく面会できないウィルス禍が悩ましい。


追記  新井素子の「絶句」は自分の本だったよ! 弟も読んでいたけど、たしか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?