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ブータン旅行記 第6章 龍の国

浅い眠りの中で、寝たり起きたりを繰り返していた。
時計を見ると5時過ぎ。
カーテンを通して差し込む朝日で、部屋はぼんやりと明るい。
少し早いが起きることにした。
今朝も山には雲がかかっている。
忘れがちだけど、ここは標高2000メートルを超える高地なんだよな。

昨日の夕方、パロの市街地におみやげを買いに行く途中で、虹が見えた。
雨上がりの空に大きく弧を描いて、山から山へと架かっていた。
すばらしく美しかった。
世界はなんて完璧で、幸福に満ちているんだろうと思った。

改めてこの旅での日々を振り返る。
守られていた。
私はいつも、この国のあらゆる神々や命に守られて導かれていた。
全ては優しく、あたたかかった。
国民総幸福量がどうかなんてわからない。
この国の一人一人が本当は自分の幸せについてどう思ってるかなんて、確かめようもない。
けれど、少なくとも私は、この国であふれるほどの幸福を感じた。
毎日が幸せで有難くて楽しくて仕方なかった。
この国の気配、それは決して強烈なものではなく、むしろ気付かずに通り過ぎてしまいそうなほど、自然に私の体になじんだ。
こんなにもしっくりとなじむということが、この国の底知れない力であるのかもしれない。
あまりに居心地のいい空間で何の不満もないから、この空間を作り出すためにどんなに大きな力が働いているのかなんて考えも及ばない。
その力は、大昔から受け継がれたDNAみたいにこの国の人々ひとりひとりの中に確かに根付いていて、だから彼らは当然のように、その力を使って生きている。
本当は日本人だって他の国の人たちだって、みんなが持っているもの。
だけどその存在をすっかり忘れて眠らせてしまっているもの。
それを言葉にするならば、博愛とか、自尊心とか、いうのかもしれないけど、でもそんな言葉では表せないほどの深くて広いもの。

ブータンという名前は、イギリスがつけたらしい。
日本を"ジャパン"と呼ぶのと同じ、何の意味もないただの記号だ。
本当の名前は、Druk Yru(ドゥルック・ユル)、龍の国という。
生きることのシンプルさを保ちながら国を発展させようという向上心もあり、しかし先進国と同じ過ちを犯さないように、冷静に見極める賢明さを持つ。
誇り高く心優しい人々の住むこの国は、まさに龍の国だ。

朝食を終えてバルコニーから外を見ると、制服を着た子どもたちが学校へ向かっているのが見えた。
急いでカメラを持って外に出て、子どもたちを写真に撮る。
子どもたちは人なつっこい。
カメラを向けるとはにかみながら手を振ってくれる。
うれしくなってバシバシ撮り、こっちも手を振る。
ただそれだけのことが、なぜかとても幸せで、かけがえのないものに感じる。

この子たちの未来が明るく幸せであるようにと、祈る。


何度も振り返って手を振ってくれた子もいた。ありがとう。



チェックアウトして、空港へ向かう。
キンガさんの運転する車に乗るのもこれが最後かと思うと、めちゃくちゃしんみりしてしまう。
サンゲは最後まで職務を忘れず、あれが教育大学ですとか、あれは昨日行ったお城ね、とか説明してくれる。
やがて、ジャア最後に日本のサヨウナラの歌をかけマショウ、と言ってiPhoneを取り出した。
日本の歌?なんだろうと思っていると、
 
もう~ おわ~り~だね~
き~みが~ちいさ~くみえる~
 
まさかのオフコース。
いや、間違ってはいないけど。
ブータンののどかな田園風景を横目に、
サヨナラッ、サヨナラッ、サヨナラ~アア~、とみんなで歌う。
なんだろう、これ・・・。

いよいよ空港が近づいてくると、キンガさんが何やらゾンカ語で話し始めた。
サンゲがゆっくりと訳してくれる。
「この5日間、本当に楽しかった。
 あなたといるのはとても楽しかったし、一緒にいろんなところに行けてよかった。
 たくさん笑いました。
 ありがとうございました。
 日本に帰ってブータンのことを忘れても、キンガのことは忘れないでください。」

もう・・・泣かせるやんかー!!
キンガさーん、あだ、あだじもだのじがっだよー!と泣きながら言う。
すると続いてサンゲも湿っぽい挨拶を始める。
つたない日本語ですいませんでしたみたいなことから、また来て下さいとか、質問があったらいつでもメールで聞いてくれとか、細やかな気配りはいつも通りだ。
私は本当に、この二人がガイドとドライバーでよかったと、心からそう思った。
車を降りてから二人と握手してもう一度お礼を言って、手を振って別れた。

3人で、子犬みたいにいつもはしゃいでた。
キンガさんが謎の言葉とジェスチャーでおもしろいこと言って、私がそれにあたあたと珍妙なリアクションを返し、サンゲが笑いながらお互いの言葉を訳してくれて、最後にはみんなでおなかを抱えて笑った。
二人はいつも私のそばにいてくれて、助けてくれた。
守ってくれた。
今はもう、振り返っても二人はいない。
私はひとりぼっち。
なんだかとても心細い。
さみしいな。
また二人の笑い声が聞きたいな。
二人にとって私は、次から次へとやってくるたくさんの観光客のうちの一人に過ぎないのだろうけど、でも私にとって二人は、世界に唯一の、大切なガイドとドライバーだったんだよ。

あー本当に、楽しかったなぁ・・・。
今まで何度も旅をしてきたけれど、こんなにも帰るのがさびしかったことは初めてかもしれない。
飛行機に乗り込む前、タラップの上で思いっきり空気を吸い込んだ。
ブータンの空気、私の細胞の隅々まで行き渡って、いつかまた戻ってくる時まで息づいているようにと願う。



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