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聴いてもらえる安心と聞かれない安心。

どちらが大切という話ではなく、
どちらも大切という話。

どちらも表現できる力があると
世界は少し安心を
手にすることができる。

ここ数年、親の入院や
難病の闘病を経験し
今までの普通が
普通でなくなった。

今回の「きく」はまさにそれ。

今まで、人の話を聴くのは
好きだったし、
むしろ聴き上手と言われることも
多かったと思う。

だからこそ、人の話を聴くことは
自分にとって意味あることで、
その向き合い方を考えてきた。

もちろん看護師という
職業柄もあるだろう。

でも、これまでの「きく」には
”聴く”ことしか
含まれていなかった。

何を言いたいかと言うと、
”きく”と言うのは
人間と人間の間において
安心をもたらすものと

その側面ばかり強調して
捉えていたということ。

20代半ばで親の入院や
命を繋ぐために情報の中を
奔走したり、
自宅の改修の指揮を取ったり

結婚、育児、キャリアアップなどの
典型的な20代半ばの普通を失い、
話せることがなくなった。

実際は話したいこと。
だけど
相手は何も悪くないのに

相手が理解し得ない内容を
その人との間に
投げかけてしまうことで

その人と分かり合えない痛みを
勝手に感じる
ということが起こる。

ここで大切なのは
相手は何も悪くない
ということ。

それが私から
話すことをなくさせた。

今まで、話を聴く、話すという
コミュニケーションを人間との間に
置いてきて、

特段問題なかった私にとっては衝撃で、
自分には話すことがないし
人の話を聞きとれない
受け取れなくなった。

そして、ある時に気がついた。
何も聞かれないし、話さなくて良い
聞かなくても聞いてもいい
繋がりが存在することを。

今まで見えていなかった
ことだった。

大きく発達した文明都市の下に
巧妙に張り巡らされた
地下道のような。

大きな人間には見えない
朝の薄い蜘蛛の巣のような。

そんな優しい意識の世界線に
気がついた。

つまりは、今まで文明都市で生き、
大きな人間だった。

当時の私は
聞かれない安心がある場所を
特に求めていた。

同時に、自分の耳に入っても
困らない、心が萎まない情報が
漂う場所を求めていた。

話を聴いてもらうだけが
安心を生むのではない。

聞かれない空間が
安心を生むこともある。

聞かれない安心を守る
それも、聴く側のケアの1つ
だなと思うのです。

どちらも正しい、
間違いのない安心だけど
その人にとって
目の前の人にとって

今求めている安心は
どれだろうって
慮ることができたら

少し安心できる世界が
広がるのだろう。

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