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もう誰もいない写真を眺める

 仕事で電器屋の婆さんの店に行った時の話である。
 長かった梅雨が終わりを告げたと同時に、遅れた夏が猛スピードでやってきた8月。
 白い太陽に肌は焼けつき、どこまでも続くアスファルトは熱気で揺れて、眩暈がした。
 
 ピロピロリン。
 
 自動ドアが開くと、店内から涼しい風が心地よく流れ、疲れた身体が息を吹き返していく。
 私以外は誰もいないようで、店内は扇風機の回る音だけが響いていた。
 小さいけど白を基調とした清潔感のある内装。
 過不足なく揃えられた電化製品はこれまでの経験に裏打ちされたものであろう。
 大手の格安競争から生き残ってきたのも、決して立地だけの問題ではない。

 「こんにちは」
 挨拶をすると、奥の居間から婆さんが顔を出した。
 「集金でお邪魔しました」
 婆さんはにっこり笑うと悪いねと言って、財布から10万円を取り出す。
 今年で83歳になる婆さんである。
 腰は曲がっているし、強く当てすぎのパーマの根元は白髪を隠しきれていない。
 それでも、この年とは思えない頭の回転の良さは長年続けてきた仕事の賜物である。

 「この時期だからエアコンがよく売れてね」
 景気いいじゃないですかと話しながら、私は10万円を数えて、仕事用の鞄に入れる。
 信用金庫で働く私にとって、地元の人たちとの関係は欠かすことができない。
 「ちょうど10万円をお預かりしますね。では、来週また顔出します」
 私は一礼をして去ろうとした。
 
 「ちょっと休んでいかないかい」
 呼び止められて、まずいなと思う。
 その日は夕方から大事な契約があり、今からその内容の最終確認に時間を費やしたかった。
 「すいません…今日は忙しくて…」
 「いや、面白いものを見つけてね」
 「…そうなんですね…ではまた今度…」

 ぽんと目の前に緑のスリッパが差し出される。
 「とにかくお上がりなさい」
 こうなると断りきれない。
 やれやれと言った気持ちで、私は革靴を脱いで、スリッパへと履き替える。
 私は営業の仕事をしているのに、本当に押しに弱い。
 営業で顧客の元へ向かったはずなのに、帰る頃には自分が物を買わされている時もあるくらいだ。
 「今日はあまり時間はとれませんからね…」
 小声で牽制しながら、居間へと入る。
 しかし、私の声が聞こえているのかいないのか婆さんは棚を懸命に漁っている。
 そして、「あった、あった」と言って、アルバムをテーブルに広げた。
 
 アルバムの中には、婆さんと昨年の暮れに亡くなった社長の爺さんが映っていた。
 「30年も前の写真が出てきてね」
 婆さんは嬉しそうな顔をしており、その表情を見ると私は何も言えなくなってしまう。

 爺さんは昨年の12月に突然、私達の前からいなくなってしまった。
 ちょうど忘年会シーズンでかつて町内会の会長を務めていた爺さんは多くのイベントに引っ張りだこである。
 その日も夜から宴会があり、爺さんは数年前の病気で不自由になった右足を引きずりながら出掛けていった。
 婆さんは次の日の仕事に備えて、晩飯を済ますとさっさと先に眠りにつく。
 「確か、ドアが開いた帰ってくる音がして、時計を見たら深夜の1時ごろだった」
 それが50年以上付き添った夫婦の最後の別れだった。
 
 翌朝、婆さんは目覚めると隣に爺さんがいないことを不信に感じた。
 一階で珍しく店の準備でもしているのかと思って降りてみたが、やはり爺さんの姿はない。
 玄関に靴はあるのに店にもいないと知り、婆さんはようやく焦りを感じて、家中を探し始める。
 リビングに客間、トイレと探せる場所は全て探した。
 そして願いも込めて、最後まで見なかった風呂場で亡くなった爺さんを発見した。
 
 写真の中の爺さんは足を組んで、カメラの前で不敵に笑っている。
 それは晩年、杖をついてヨタヨタと散歩する爺さんからは想像がつかないほど若々しく、かっこよかった。
 「イケメンでしょ?」
 婆さんの問いかけに、私は思わず微笑みながら頷く。
 若い頃はよく商店街の仲間達と徹夜でマージャンをしていたらしい。

 アルバムを捲ると爺さんと婆さんの他にもう一組、初老の男女が映っていた。
 山本さんという同じく電器屋を営んでいた友人夫婦らしい。
 
 四人それぞれのゴルフのショットの瞬間の写真。 
 旅館で夕食を囲んでいる写真。
 カラオケで熱唱している写真。
 夕焼けをバックにピースしている写真。

 爺さんはもちろん、婆さんも腰がまっすぐに伸びて、今じゃ想像がつかない黄色のシャツを着てはしゃいでいる。
 肌にはハリがあり、腕にも筋肉の形が目ではっきりと感じとることが出来た。
 髪だって、今よりもずっと自然で黒い。
 
 「皆、いなくなちゃった…」
 アルバムを捲りながら、婆さんがぽつりとこぼす。
 5年前に山本さんの旦那さんがガンで亡くなり、後を追うように奥さんも亡くなったそうだ。
 そして、去年は爺さんがいなくなってしまった。
 
 鮮やかな緑のゴルフ場の芝が急速に色を失っていく。
 どれだけ綺麗な思い出を閉じ込めても、現実は少しずつ移ろい、二度と戻らない。
 肌はたるんで、腕は痩せこけ、大好きだった人達もいつかはいなくなってしまう。
 かつては多くの人で賑わったこの商店街も今やその面影もない。
 写真のようにはいかないのだ。
 
 「でもね…」
 婆さんはゆっくりと口を開く。
 「私はあの人と散々遊んで、もう何の後悔もないんだよ。だから、あとは少しこの店を守るだけ。焦らなくても、爺さんは寂しがり屋だからあっちで待っててくれるさ」
 婆さんの横顔はやっぱり寂しそうだ。
 それでも、その中に静かな決意のようなものを感じた。
 そうですね、と私もアルバムの中で笑う爺さんを見ながら呟く。

 そして、恥ずかしがる婆さんを店の前に引っ張り出すと、スマホで写真を撮った。
 これだけの写真があるのに、この店と婆さんの写真が一枚も無かったからである。
 「働くのに必死でここで写真を撮ろうなんて考えもしなかったよ」
 婆さんは嫌がる割には何枚も写真を撮らせて、ああでもない、こうでもないと注文をつけた。
 
 小さな電器屋ともっと小さな婆さん。
 次々と新しいマンションが建つこの街で20年後、この店のことなんて誰も覚えていないかもしれない。

 でも、確かにあったのだ。
 写真の中の輝かしい全てが消えて無くなってしまっても。

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