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昨夜わめきちらした隣人が笑っている

 「なんでそんな簡単なこともできひんのや!!」
 家族で夕食を囲んでいると、竹内の奥さんの大声が響いた。
 隣に住む我が家のリビングまでである。
 甲高くて、それでいて腹の底から沸き上がるような声。
 オペラ歌手が隣で発声練習でもしているのかと思うほどである。
 
 おそらく僕たちの家だけではない。 
 この辺りで暮らす住人のすべてが被害者だった。
 あの奥さんの大声に比べたら、タクミ君のエレキギターなんて可愛いものだ。
 だけど、竹内さんの家に苦情が入ったという話は不思議と聞かない。
 普段は威厳のある父も苦笑いをして、また始まったという顔をするばかりである。
 あの時はどうして何も言わないんだろうと不思議に思ったけれど、今なら父の気持ちも分かる。
 
 あのおばちゃん、やっぱり怖いもんな。
 そして、京都の外れにある小さな田舎町が抱えた問題そのものだったんだと思う。
 
 竹内夫妻は、確か僕が小学4年生の頃にこの町に引っ越してきたと思う。
 ある日、学校から帰るとしばらく空き家になっていた隣家に3人の男女が立っていた。
 30代半ばほどの若い夫婦と不動産会社の人間だと思われるスーツを着た男。
 スーツの男は額の汗を拭いながら、必死にこの家の魅力について語っていた。
 
 僕が自宅に入ろうとすると、「あら、可愛い」と声がした。
 振り返ると、夫婦の妻と思われる女性がこちらを見て、にっこり笑っている。
 浅黒い肌に砲丸投げの選手を思わせる大きな体。髪は一本にまとめられて後ろで結ばれていた。
 「こんにちは」
 女の人は目を細めながら、手を振る。
 「…こんにちは」
 知らない女性に話しかけられて、ドキドキしながら僕もなんとか挨拶をする。
 「これからよろしくかもしれへんね」
 その時は言葉の意味がよくわからずに、曖昧に頷く。
 そして、逃げるように玄関の中へと入った。

 「ここは自然も多くて、安心して子育てをしていくことも可能です」
 扉の向こうでは、不動産の男がここぞとばかりにセールスをかけていた。
 「ええ、はい。その通りやと思います」
 女性はここが相当気に入ったのか、大きく同意している。
 僕は知らない女性に可愛いと言われたことに動揺して、いつまでも魚眼レンズから外の様子を眺めていた。

 若い夫妻の引っ越しは、すぐさま噂となって町中を駆け巡った。
 大袈裟だと思うかもしれないが、人口が5千人も足らない小さな田舎町にとって、引っ越しは大きなイベントの一つであった。
 特に市内へと引っ越していくことはあったとしても、この町に転入してくる事例はきわめて稀である。しかも、それが30代の若い夫婦だとなると町は一層色めき立った。
 
 「これで私の仕事も少し軽くなればええんやけど」
 当時、高校の教員をしながら、町内会の役職を掛け持ちしていた父はホッとしたような溜息をついた。 
 つまり、竹内夫妻は大いなる期待を背負って、この町にやってきたという訳である。
 
 引っ越しから3日後、竹内の奥さんはさっそく井戸端会議の中心になっていた。
 この町の印象や市内から引っ越してきた理由。
 奥さんが楽しそうに話すと、周りはまるで大河ドラマでも見ているかのように大きく溜息をついた。
 奥さんの側でも、積極的にこの町に馴染もうと名産や観光地について質問をしていた。

 その数日後には、この町で一番大きな病院へ看護師として勤務が決まったようだ。
 看護師として勤務経歴があったことと、近所に住むベテラン看護師の口添えが大きかったらしい。
 夜勤にも嫌な顔一つせず対応してくれると誰かが褒めていた。

 一方、旦那は穏やかな人だった。
 赤く荒れた肌に顎鬚を伸ばしていて、一見怖そうな顔をしている。
 しかし子供のことが本当に好きらしく、僕達ともよく遊んでくれた。
 身体は奥さんに負けないくらい大きいのに、どんくさくて、子供たちにもなめられていた。

 でも間違いなく、皆、彼のことが大好きだった。
 「あっくん」
 僕達は、親しみを込めて彼のことを呼んだ。
 あっくんは、ずっと野球のピッチャーをしてくれたし、僕達がかっ飛ばした打球を誰よりも早く、草むらに飛び込んで探してくれた。
 それでも、見つからない時は車をスポーツ店まで走らせ、軟球を買ってくれた。
 
 でも、そのうち違和感を感じるようになった。
 あっくんが僕達と遊んでくれる頻度があまりにも多かったのだ。
 
 「あっくんって働いてへんのかな」
 野球の帰り道、中川君がぽつりとこぼした。
 「どうなんやろうな…。さすがに何かしてるやろ」
 「でも、いつも俺らとおるやん」
 「まあな…」
 
 あっくんの素性については、一時、子供たちの間でいろんな噂が交わされていた。

 ・奥さんのヒモである。
 ・精神に重い病があり、働くことができない。
 ・株のトレーダーとして大儲けをしている。
 ・夜の仕事の支配人をしている。
 
 根も葉もない噂だったが、当時はその全てに本当らしい理由がつけられていた。
 結局、噂の一つである『深夜に日雇いで土木関係の仕事をしている』
 というのが正解なのであるが、それがわかるのは僕達がもう少し大人になってからである。
 
 そんな噂が広がることもあったが、当時の僕にはあまり関係ないことだった。
 こうしてあっくんが学校終わりに野球やサッカーをして遊んでくれる。
 それだけで十分だった。

 「今日はもう遅いし、この辺にしよう」
 あっくんが号令をかけると、僕達はバットやベースの代わりの空き缶を片付けていく。

 遠くから声がした。
 「おうおう、今日も子供に遊んでもらってよかったなあ」
 「お前の方が楽しそうに遊んどるやんけ」
 声の方向を見ると、藤原君と山田君のお父さんが立っていた。
 2人とも林業用の作業着に白いタオルを頭に巻いている。
 社交的で町内会のイベントも率先して盛り上げる人気者の2人。
 でも、どこか田舎特有の閉鎖的で意地悪なところがあった。
 
 「すんません…へへ…」
 下を向きながら、あっくんは卑屈に笑って、ごまかしている。
 あっくんのそんな姿を見るのは、子供ながらに辛かった。
 大人のそのような一面を見るのも嫌だったし、大人になってもこういったことが続くのかと思うとぞっとした。
 
 もちろん最初からこのような状態にあった訳ではない。
 あっくんにも非が無いわけではないのである。

 この町はかつて杉が有名で、林業が非常に盛んであった。
 しかし、当時から業界での高齢化は深刻で、常に人手不足が叫ばれていた。

 そんな中、あっくんも引っ越し先での新しい働き口を探していた。
 その時、組合にあっくんを紹介して、仕事を斡旋したのが藤原君のお父さんだったのである。

 あっくんはすぐに職場の人気者となった。
 どんくさいけど、人当たりはいいし、頑張り屋だから当然だと思う。
 近所には川が流れており、休日にはよく河原でバーベキューが行われていた。
 楽しそうな笑い声に包まれて、あっくんが照れくさそうに缶ビールを飲んでいたのを覚えている。

 でも…多分あっくんはしんどかったんだと思う。
 和気あいあいする職場だとか、相互扶助の地域のコミュニティーだとか。
 そういった全てがしんどかったのだと思う。
 あっくんは徐々に仕事に遅れるようになり、半年後には辞めてしまった。
 「藤原さんの顔に泥を塗りやがって」
 地蔵盆で、食事をしている時に酔った大人が叫んでいた。
 
 仕事を辞めると、周りはあっくんに対して急に冷たくなった。
 暴言みたいなものは流石になかったが、あっくんが近くを通ると、わざとらしく静まる。
 そして姿が見えなくなると、くすくす笑いあっていたのだ。
 そういう時、僕は円陣のど真ん中に石をぶん投げたくなった。
 
 その頃から、竹内の奥さんはより一層近所付きあいに精を出すようになった。
 夜勤終わりでも、目を真っ黒にして、ランチ会に顔を出した。
 奥さんは下品な冗談を言う時、ヒキガエルみたいに顔を上げて笑う。
 特に旦那のふがいさなを話す時は、いっそう声のボルテージを上げた。
 
 「ほんまに、うちの亭主がお仕事で迷惑かけてすんません。なんせ一人っ子の片親で育ってきてますから我慢という言葉を知らんもんで」
 「もう何をやらせてもグズで…それに比べて高橋さんとこの旦那さん、男前やし羨ましいわ。3日でいいから貸してちょうだい」
 
 この言葉を聞いたらあっくんはきっと悲しむだろう。
 でも、あっくんについて話す奥さんの必死な顔が彼を守っているように感じることもあった。

 そんな夜だった。
 突然の怒声が閑静な住宅街に響き渡り、僕は目を覚ました。

 「ほんまに何も出来ひんこのボケカスが!!ええ加減にしいや!!」
  
 時計を確認すると、深夜の3時を指していた。
 2階で両親も目を覚ます音がする。

 その声の主が竹内の奥さんだと僕が理解するのには、少し時間がかかった。
 あっくんの声も僅かにするが、ぼそぼそとして上手く聞き取れない。
 
 「もういい加減にして!お前のせいで私がどんな思いしてんのかわかんのか!!」
 
 近所の人達も目を覚ましたのだろう。家の明かりがぽつぽつと付くのが窓から見えた。
 「ごめん…俺が悪かった…」
 「謝るんやったらなんで仕事辞めるんや!毎日、阿保みたいにガキと遊んで、恥ずかしくないんか…!」

 最後は金切り声になって、嗚咽に近かった。
 僕は何もできずにただ布団の中で静まるのを待った。
 両親の喧嘩を聞いているのとはまた違う、嫌な心地がした。

 翌朝、目を覚ますと小鳥が囀り、昨夜の騒動が夢のように思えた。
 学校に向かうために家を出る。
 その時、ゴミ出しをしている奥さんとばったりはち合った。
 両手に大きなポリ袋を持つ奥さんの顔に化粧はなく、髪はぼさぼさと肩で散らばっていた。
 
 昨夜のことを思い出すと、なんだか気まずくて、駆け足でやり過ごそうとした瞬間、「おはよう」と声をかけられた。
 顔を上げると奥さんは笑みを浮かべて、袋を持ったままの手を振ってくれている。
 いつも通りの何も変わらない笑顔であった。
 僕は小さくおはようございますと答えると、小走りで登校の集合場所へと急いだ。
 
 その日は一日中、竹内の奥さんについて考えていた。
 昨夜、大声であっくんにわめき散らしていた奥さんと今朝、僕に手を振ってくれた奥さん。
 どちらも本当の奥さんであり、どちらも違う気がした。

 「ちょっと三村君、ボーっとしないで授業に集中しなさい」
 声をかけられて、我に返る。
 
 今年から担任になった高山先生の心配そうな顔でこちらを見ていた。
 女子達のくすくすとした笑い声が聞こえる。
 「どうしたの、体調悪いの?」
 「…大丈夫です…ごめんなさい…」
 
 先生はそれ以上は何も言わず、授業に戻った。
 美人で性格も明るい高山先生。
 隣のクラスの梅本先生と付き合っている噂もあるが、高山先生ならもっと素敵な人がいると思う。
 でも…そんな高山先生にも誰も知らない一面があるのかもしれない。
 知りたいような、知りたくないような曖昧な気持ち。
 そんなことを考えていたら、いつの間にか下校の時間になっていた。

 竹内の奥さんの怒声はその後、定期的に続くようになった。
 深夜に怒鳴り声が響き、あっくんのぼそぼそと謝る声がする。
 それでも奥さんは相変わらず、次の日にはけろっとしており、地域の集会に積極的に顔を出した。
 そして、だらしのない亭主の悪口を言って、皆を笑わせていた。
 
 しかし、そんな状況が一か月を過ぎた頃。
 「旦那も旦那だけど、あれじゃあまりにも可愛そうやわ」
 この町に住み50年以上になる坪内さんの一言で風向きが大きく変わった。 
 あっくんに同情的な人達が急速に増え始めたのだ。

 「お前も家の中だけやと、息苦しいと思うてな」
 「うちのかあちゃんも怖いけど、お前んとこの嫁さんにはかなわんわ」
 
 藤原君と山田君のお父さんに囲まれて、あっくんは缶ビール片手に、迷惑かけてすんませんと謝っていた。
 こうして皮肉にもあっくんは地域のコミュニティーに復帰を果たしたのだ。 

 対照的に奥さんの元からは人が離れていった。
 奥さんもそれに気づいていたのか、集会に顔を出すこともなくなった。仕事以外は外に出てくることもなくなり、あっくんがスーパーで買い物をしている光景が目立つようになった。
 たまに外出することがあっても、主婦達が話す横をまるで夜逃げでもするかのように通り過ぎていた。
 
 時期を合わせるかのように、深夜の騒動もぱたりと止んだ。
 近所には久しぶりの平穏が訪れ、皆もほっとしたような、それでいて面白いことがなくなって少し残念のような心地であった。

 季節は穏やかに流れ、いつの間にか秋へと変わっていた。
 休日、部屋でテレビを見ていると、チャイムが鳴った。
 玄関に向かった母が僕を呼ぶ声がする。
 階段を降りると、藤原君のお父さんが立っていた。
 「今年もよろしくな」と一枚のチラシを渡される。
 チラシには『秋の大スポーツ大会』と大きく書かれていた。

 この町では年に一度、地区を大きく4つに分けたスポーツ大会が行われる。
 女性が中心のバレーボール大会、シニアが参加可能のゲートボール大会、そして大会の一番の目玉として男性が集まるソフトボール大会が行われた。

 チラシの日付をみると2週間後である。
 参加者が年々減少しているということもあり、僕も去年から目玉競技のソフトボールに参加させてもらっている。
 子供だと、舐めてかかる大人の頭上をボールが抜ける瞬間は快感でしかなかった。
 「予定空けとけよ」
 「うん、わかった」
 母はよろしくお願いしますと頭を下げた。
 
 話はついたが、藤原君のお父さんはまだ何かを言いたそうだった。
 「どうしたん?」
 「…明のやつも誘ったら参加するかな?」
 藤原君のお父さんは少し照れくさそうに言った。
 僕は驚いた後、「もちろん」と答えた。
 少し意地悪なところもあるけれど、こうしたほっとけない性格が息子の藤原君にそっくりだと思った。

 藤原君のお父さんと一緒にあっくんの家の前に立ち、インターホンを押す。
 反応がないので、もう一度押すと、ようやく部屋の奥でごそごそと音がして、寝ぐせだらけのあっくんが出てきた。
 あっくんは不機嫌そうな顔で扉を開けたが、藤原君のお父さんを見るとはっとしたような表情に変わった。

 扉の隙間から薄暗い廊下が見えた。
 ここに引っ越してきてもう半年近くになるのに、ちっとも整理されていなかった。
 思えば、あっくんの家の中に入ったことは一度もない。
 「陰気臭い家やな」
 藤原君のお父さんの言葉に、あっくんはすんませんと笑っていた。

 スポーツ大会に誘うと、その日は朝まで仕事だから力になれないと断られた。
 しかし、結局は藤原君のお父さんの熱心な誘いに折れたようだった。
 「この機会に皆を見返さなくてどうする」
 藤原君のお父さんの言葉があっくんにはどのように届いていたのか、僕には分からなかった。

 それから2週間は瞬く間に過ぎ去り、気づけばスポーツ大会当日だった。
 残暑も落ち着き、空は高く、羊雲が浮かんでいた。
 
 あっくんもヨレヨレのジャージを着ながら小学校のグランドにやって来た。
 仕事終わりで眠いのだろう、準備体操中に何度も大きな欠伸をしていた。
 
 でも、それ以上に気になる人がいた。
 「皆、頑張ってやー!」
 準備運動をする男性陣に竹内の奥さんが声をかけている。
 しばらく見ないうちに更に太った様子だったが、以前ほどの迫力は無かった。
 それでも彼女なりに精いっぱい明るく振舞っていたように見えた。
 
 「お前の母ちゃんが出たらよかったのにな」
 仲間が冷やかすと、どっと笑いが起こった。
 あっくんは恥ずかしそうに、すんませんと笑った。

 そして、試合が始まった。
 僕は7番セカンドで、あっくんは9番ライトだった。
 試合は淡々と進み、僕の打席になる。
 相変わらず、相手のピッチャーは子供の僕だけ山のようなボールを投げる。
 それを目一杯に引っ張ると、打球は三遊間を抜けていった。
 
 「ナイスバッティング」
 仲間からの歓声がはっきりと聞こえた。
 次のバッターも続いて、ランナーが2人出たところで、あっくんの打席を迎えた。

 あっくんは明らかに緊張していた。
 バッターボックスで棒立ちになり、手だけでバットを構えている。
 初球を大きく空振りすると、バランスを崩して、失笑が生まれた。
 「母ちゃんの前で打たな、夜中に殺さるぞー」
 野次が飛ぶとベンチに大きな笑いが起きた。
 敵軍のピッチャーも笑って、しばらく投げれない様子だった。
 
 「もうーやめてください」
 竹内の奥さんは甲高い声で突っ込んでいたが、誰も相手にしていなかった。
 あっくんも笑っていたが、身体の動きが更に固くなった。
 
 あの時、一言で良いから声をかけてやれば良かったなって今でも思う。

 ピッチャーが次の球を投げた。
 先ほどよりは短く握られたバットに、なんとかボールが当たると、打球はサードへと転がっていた。
 僕も打球の行方を追いながら、全力で走り出す。
 
 その時、悲鳴が起こった。
 突然騒がしくなった声の方向を見ると、あっくんが一塁ベースの手前で倒れていた。
 「ああ…痛い…痛い…」
 近くに駆け寄ると、あっくんは右太ももを抱えて、唸っている。
 顔は熱湯の中の蛸のように赤く、大粒の汗が浮かんでいた。
 「肉離れや!肉離れ!」
 場内は大騒ぎになって、試合は一時中断となった。
 そして、グラウンドに到着した救急車の担架にあっくんは乗せられ、病院へと運ばれていった。
 赤いライトが見えなくなると、辺りは急に静かになった。
 
 試合はその後、再開したが大した盛り上がりもなく、結局負けてしまった。
 去年に感じた悔しい気持ちもなかった。
 道具を片付けながら、僕はなぜかあっくんではなく、真っ赤な顔で救急車に同乗した奥さんのことを考えていた。 
 
 そして、その日の夜。
 久しぶりに、奥さんの怒声が閑静な住宅街に響き渡った。
 この日は特に激しく、皿が割れる音や硬い物が壁にぶつかる音がした。
 「この恥さらしのあほんだらが!!」
 聞き取れない部分が多くて、獣の雄たけびのようであった。
 「私がどれだけ恥をかいたかわかってんのか…」
 聞くに堪えなくて、僕は布団の中で嵐が過ぎ去るのをひたすら待つ。
 
 しかし、僕は布団の中である異変を感じていた。
 奥さんの声が一層強いのに反して、あっくんの声が聞こえないのだ。
 いつものなら、ぼそぼそと謝る声が聞こえるはずである。
 僕は何も言えずに小さく蹲るあっくんを想像した。
 
 その時、ボコっとこれまでに聞いたことのない音がした。
 今までとは全く違う力で壁の深くまで穴が開いたような音だった。
 ボコ、ボコ、ボコ、ボコ。
 「ちょ…ちょっと何してんの…やめて…」
 奥さんの慌てた声がした。

 大きな食器棚が倒れて、大量の陶器が割れる音が響いた。
 ボコ、ボコ、ボコ、ガシャン、ボコ、ガシャン…ボコ。

 僕は息を飲んで、部屋の電気をつけると窓を開けた。
 秋の涼しい風が頬を撫でる。
 そして、虫の声に交じって、奥さんが助けを求める叫び声が聞こえた。 

 僕は慌てて裸足で家を飛び出した。
 既に起きていた母の止める声がしたが、そのまま走り続けた。
 近所の人も異変に気づいたようで、明かりのついた窓から心配そうな様子で眺めていた。

 あっくんの家の前に立つと、扉の向こうからはまだ何かが壊れる音がする。
 ドアノブに手をかけるが鍵がかかっていたので、僕はインターホンを何度も押して、あっくんの名前を呼んだ。

 すると、中の音がぴたりと止んだ。
 次の瞬間、鍵が外れる音がしたと同時に扉が開き、パジャマ姿の奥さんが飛び出してきた。
 目は赤く充血して、パジャマの袖の部分は大きく破けていた。
 
 廊下の向こうに、壁にもたれたあっくんが立っている。
 グレーのスエット姿に髪が汗でびっしょりと濡れた男。
 それは僕の知らない人間に見えた。
 廊下の壁は、何か所も拳で出来た穴が開き、あっくんの両手からは血が滴り落ちていた。
 
 「…あっくん…何してんねん…」
 あっくんは僕の顔を見ると、驚いた後に泣きそうな顔になった。

 いつもの口癖ですんませんと言い出すのではないかと思ったほどである。
 しかし、あっくんから発せられた言葉は僕の想像とは全く違うものであった。
 「…こんな人生嫌やねん…」
 
 何が嫌やねんと聞こうとした時、誰かが呼んだパトカーがこちらに向かってきた。
 赤いサイレンは夜空をどこまでも赤く染めて、黒い雲が遠くまではっきりと見えた。
 
 肉離れ中のあっくんは警察に「ちゃんと歩け」と怒鳴られ、すんませんと謝っていた。
 それが僕があっくんを最後に見た瞬間だった。

 よく眠れないまま次の日の朝を迎えた。
 それは父も母も同じようで、重苦しい雰囲気の中で朝食を黙々と食べた。
 朝のニュースに出るかもしれないとも思ったが、昨夜の出来事よりも遥かに悲惨なことでテレビは大忙しだった。
 いってきますと声をかけると、母は珍しく、今日は早く帰ってきなさいと声をかけた。
 
 家を出ると、真っ直ぐに登校の集合場所へと向かう予定だった。
 しかし、どうしても気になり、隣の家をちらっと覗く。
 すると、奥さんが軒下の割れた窓のガラスを箒で掃いていた。
 顔を殴られたのだろうか、黄色と青が混ざったようなアザが出来ていた。
 手伝った方がよいかなと考えていたら、奥さんが僕に気がついて目が合う。
 そして、腫れた顔でいってらしゃいと笑って手を振ってくれた。

 整理できない気持ちのまま歩いていると、ゴミの収集場所にカラスが群がっているのが見えた。
 ゴミ袋は嘴で何か所も穴が開けられ、生ごみが散らばっていた。
 真っ黒な羽は夜が忘れた残滓のようで、朝には似合わず僕は思わず目を背けた。

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