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全て、貴方のせいです。 第3話

概要

 筆者は、髑髏教について調査していた。断片的な情報を繋ぎ合わせると、真実が見えてくる。今回は、死神信仰と髑髏崇拝という、土着の宗教を信じる村の話。

幽鬼

光文█年、■■■■■に、「髑髏村」と呼ばれた地域がありました。

そこでは、口減らしの為、働けない老人は姥捨山に捨てられる風習があったのです。

村の裏山を登ると、「丸石様」と呼ばれる岩がありました。これが捨てる場所の目印になっています。

皆で協力して、生きたままの老人を棺桶に閉じ込め、山の崖から転がす。

その後、山の麓にある寺へ運ばれ、中で瀕死の状態であろうと、そのまま火葬される。

僧侶は、殺害された者達からの祟りが起きないよう、死神として神格化し、髑髏本尊と呼び、崇め奉りました。

寺の本堂は、四方八方、どこを見ても骨。骨。骨。

壁や天井には骸骨がぎっしりと埋められ、中央には無数の髑髏が山の様に積み上げられていました。その寺の名は、髑髏寺。

日本が発展して村が豊かになり、食い扶持を減らす必要がなくなっても、この行為は無くなりませんでした。むしろ、風習が儀式化したのです。

死者が村に災いを起こさぬよう、高齢者は口減らしではなく、生贄になりました。

双子の片割れや障害者も、忌み子として扱われ、生贄の対象となりました。その頃には、姥捨山の風習から、人の手で殺害する方法に変化していました。

忌み子の親や、高齢者の子が、生贄の心臓を突き刺す。

生贄を殺害する物は、大腿骨を鋭利に尖らせた道具。これは過去に殺された大人の物で、柄の端には、子供の髑髏が装着されています。これそのものを、死の象徴として扱いました。

それを両手で強く握り、こう言うのです。

「死は平等に訪れる」

村は、髑髏本尊という名の死神を崇拝していました。教祖や経典はありませんが、村人達はこう呼びました。「髑髏教」と。

その頃には、村の隅々まで信仰が行き届いていました。常に逆さ屏風で、着物を左前に着て、手の甲を合わせて祈る。それが髑髏村の常識となっていたのです。

いつの間にか、裏山にあった丸石様は髑髏みたく加工され、「髑髏岩」と呼ばれるようになっていました。

また、ここではお盆を「死者の日」と言います。

村人は、先祖の髑髏を使った杯で宴をし、「死神祭」で盛り上がる。死者の日の期間は、村は飲めや歌えやの大騒ぎ。

村人達は、寺の周りに蝋燭の火を並べ、疲れ果てるまで踊ったそうです。これが祭祀の一つ、「死の舞」です。熱狂的な信者は、死ぬまで踊り続け、自らの命を神に捧げました。そうする事が最上級の幸福だと、村人は思い込んでいたのです。

このように、髑髏村において、死は恐怖の対象ではありません。救済であり、希望でした。

村人にとって、死は身近にあります。死は終焉ではなく、解放なのです。

死後、肉体を離れることで、苦悩から解き放たれ、本来の在るべき姿に戻る。死を瞑想をする事で、梵我一如を悟る。それが、髑髏教の真髄でした。

因みに、民俗学によれば、この宗教は消滅したか、そもそも実在自体に懐疑的な視点が主流です。少なくとも、現代には存在しないと考えられています。

しかし、本当にそうでしょうか?

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