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左藤青「タンデムの方法論」——エッセイ「私と空間/場所」④

記号と実在

当たり前のことだが、看板は単なる木や鉄でできた板ではない。車や電車は鉄のかたまりではないし、ハンマーは木と鉄からなる十字型あるいはT字型の物体ではない。 

看板は木の板ではなく言葉であり、指示である。車は鉄塊ではなく移動手段である。ハンマーは打つものだ。ペットボトルは飲むものだ。かくして、日常の空間はさしあたりたいていは、私たちにとって記号的に現れている。言い換えれば、私たちは日常、それを素材として認識するよりもむしろ意味として了解している。

このようにして記号的認識に与えられる意味は、しかし、たんに自明なものでも素朴なものでもない。意味は歴史や習慣や法や政治経済が織りなす独特の連関によって決定されており、変容可能性にさらされているからである。私たちの日常的な安楽を裏切るようにして、意味は不安定であり、つねに変わりうる——私たちはハンマーを一般的すなわち伝統的な用法とは違う形で使うことがつねにできる(例えば前衛音楽家は楽器として用いるだろう)。

この意味の「肌理」(きめ)は、その観察者ごとに異なる。例えば動物学者が観察するネコと私たちがペットとして飼うネコは、同じ存在者として了解されてはいるが、その解像度が異なる。意味の領域においては、同じ対象についても、意味のありかたが異なることのほうが通常である。けれども、意味という病に疲れたあなたなら、次のように考えるはずだ。こうした厄介な意味の構造に対して、こうした意味が剥ぎ取られ、物事が一気にシンプルになるように思われる瞬間も確かにある、と。お好みなら、それを記号的認識に比較して、実在的認識ととりあえずは呼んでおこう。実在的認識は、ゲシュタルト崩壊のように、文字が意味ではなく単なる物質的形象として与えられる瞬間に似ている。

ところで、一見するところ、この実在的認識にうってつけの体験が存在する。バイクに乗るという経験である。一見するところ、ここには記号の裂け目がある。バイクの隣に停まった4tトラックは、もはや「貨物を運ぶための手段」ではなく、目と鼻の先にある巨大な鉄塊としてわれわれを威嚇する。バイクは皮膜で守られた個室たる自動車とは異なる(「マイカー」は世界から独立したエゴ=自我という幻想を作り出す装置だ)。バイクは自身の身を世界から庇護することができない。それは「剥き出し」である。バイクは道路との連続性のなかから自身を切断することができず、否応なく開かれている。この「剥き出し」にとってトラックはありありとした実在性を持って迫ってくるわけだ。

そして普段運転をするあなたなら次のように感じたことだろう。いやいや、運転手はつねに標識や信号という「記号」を読み解いている。運転手は「実在的認識」にかまけてなどいられないのではないか、と。

たしかにそうだ。だが、少なくとも私はそんなことを知らなくともよい。私は自身では免許を持たず、友人のバイクにタンデム(二人乗り)して、後部座席に悠々と乗り込んでいるからである。プラクシスなきテオーリアであるタンデムの経験においては、実在がまさに実在であるかのように現れてくるケースが多々ある。ここで私が語りたいのはバイカーの孤独なロマンなどではまったくない。物見遊山で和気あいあいとした、タンデムの方法論である。

「何もない」とは何の謂いか

バイクで日帰り旅行に行くというのは、おおよそ都市から周縁部への移動を意味している。私は友人の背中に乗って、京都からより郊外へ、具体的には滋賀へ、福井へ、奈良へと繰り出す。そのように旅に出て私たちが気付くのは、日本とはおおよそ何もない国だということである。

「何もない」。郊外や田舎を形容する際にしばしばこの言葉が用いられる(「あそこらへんは何もない」と言ったように)。だが、当然「何もない」とは、実在の審級ではなく意味の審級で述べられている言葉である。「何もない」ことはありえない。名もない山も川もアスファルトもガードレールも標識も空き地も田畑も、気味が悪いほどに、日本中のどこにでも「実在する」(「遍在する」とすら言っていいだろう)。

だが、少なくとも一定以上は都市化された場所に生活している私たちが「そこには何もない」というとき、そこには私たちにとって現れてくるような「意味」がない。看板に例えるなら、そこには板はあるが読み取るべき文字が書かれていないようなものだ。日常的に、私たちはその事態を「何もない」と呼んでいる。それはどこでも交換可能なような場所である。私たちにとって郊外は、意味と固有性を剥ぎ取られた空間なのだ。

おそらく通常の旅行では、私たちはこの意味を剥ぎ取られた空間になかなか出会うことができない。例えばあなたが東京から京都に新幹線で旅行し何泊か宿泊する場合、あなたはある意味連関から別の意味連関へ移動しているに過ぎない。しかしその意味と意味の連結部分、「何かある」と「何かある」のあいだには、不気味な「何もない」地帯が延々と広がっている

私たちが普段「旅行」と呼ぶ、確固たる点と点の移動は、目的論的旅行、あるいはモニュメント的旅行、あるいはキャラ的旅行などの名前で呼ぶことができるだろう。ここではそれを総称的に「観光」と呼んでおく。私たちはある街の、ある名所の、ある土地の記憶の、ある出来事の記念碑に触れ、「その土地ならではの」ものを消費するために「観光」する。私たちはモニュメントからモニュメントに瞬間移動する。だからこそ、「観光」の経験には欲望、意味、固有性が満ちており、「ハレ」の非日常性のなかで、ある種の特別なアウラをまとって享受されるのだ。

それに対し、バイクでの旅すなわち「ツーリング」は——ここでは便宜的に「バイク」や「ツーリング」と言っているが、自動車や自転車や徒歩の場合でも、多少の差異はあれ可能であろう——点と点の移動とは少し異なる。それはの移動なのだ。例えば京都から福井に行くとして、私たちは否応なく、途中で、「何もない」地帯の試練を通り過ぎていかなくてはならない。とりわけ、京都から福井に向かう国道367号には、滋賀県に入ったあたりに「途中」というそのものずばりの地名がある。行き先ではなくむしろ途中こそ、ツーリングのアルファでありオメガなのだ

「途中」(滋賀県大津市)を少し過ぎたあたり。「何もない」。

つまり、ツーリングの力点は、名詞(福井)ではなく動詞(行く)の方にある。もちろんある程度目的地は設定するが、その都度行き先はつねに変更可能であり、大雑把なものにすぎない(だからバイクでの旅は何度も何度も上から描き直し、方向性を修正していくようなドローイングに似ている)。

おおよそバイクに乗っている時間の大半は、市街地と市街地のあいだの「何もない」をただひたすらに走っており、モニュメントは仮設的な目的に過ぎない。ツーリングとは、移動そのもの、走ることそのもの、「途中」そのものが「旅」として成立する奇妙な事態なのである。ツーリングの経験は、旅先ではなく旅そのものを自己目的化するという倒錯のなかにある。移動は意味の享受のための厄介で動かしづらい待ち時間ではなく、それ自体が享受の対象となる。

ツーリングにおいて私たちが出会うのは、全くその土地ごとに独自であるはずなのに、どこでも同じような光景である(おそらく、あなたは確実にその風景に出会っているし、それどころかそういう風景に接している時間の方が多いかもしれない)。国道沿いの風景でもいいし、もっと田舎の山沿いの道でも、何でもいい。想像してみよう。そこにはおよそ「何もない」=「意味」がない。

確かにそれは実在的な光景である。だが、その場所は、ありありとした実在性を持って生き生きと迫ってくるというわけではない。この実在性は、そもそも言葉を与える気すら起こらないような凡庸で没個性的な場所という意味で、「実在的」なのである。延々と続く道路沿いには、形容の仕方が難しい、「何かがある」のに「何もない」場所、実在するが意味がない場所、ただそこに在るだけの場所がひたすらに続いている(およそ日本の国土の何%がこのような光景なのか私は知らない)。

ところで、こうした場所は、意味を収奪されていると言うべきである。言うまでもなく資本制は搾取の構造だが、それは資本のみならず意味を搾取するシステムでもある。実在の搾取だけではなく、記号の搾取が存在する。都市は物資や人材のみならず意味・文化・精神を飲み込み、消費する。都市は外部を内部化する。都市の周縁あるいはその内部にすら局所的に存在し、独特の「普遍性」をもっている郊外の光景とは、物資のみならず意味を搾取され疎外された、平均化・遍在化した土地——「バックヤード」——の形象である。

たとえば東京という都市の中心部に「意味」が満ちているのは、その都市が周辺の都市を「無意味化」し、意味を「総駆り立て(Gestell)」するからである。多くの人が、単に経済的な事情のみならず、この「意味」のために東京に「駆り立て」られ、「挑発」され、「出頭」させられている。意味の中央集権がある。

すでに述べたように、都市と都市、すなわち意味と意味の間——「周縁」——には、名前と意味と記憶を剥ぎ取られた「無意味」な道が広がっている。ツーリングがこの無意味に直面する疎外の経験であると仮定すれば、観光とは、意味から意味へとジャンプすることで、この収奪のシステムに対し盲目になることである(だから観光の方がもちろん非日常的であり、「楽しい」)。

私がタンデムの経験と呼ぶのは、むしろ、この意味と意味のあいだに広がる周縁の無意味を享受する、特異な経験である。特異な——いっさいの特異性がないという点で特異な——空間の経験。

それは非日常的なのではなく、日常の日常性がどこまでも続いていることを感じさせる。私たちはツーリングを通じて周縁を旅するのだ。そうして私たちは、意味連関と意味連関、場所と場所の区切りがたんに恣意的なものであり、世界がうんざりするほどのダラダラとした空間の「延長」から成っていることを知る。

意味のない無意味の意味

ここで「急ハンドル」を切ろう。したがって、リベラルは勝つためにツーリングに行くべきである。できればタンデムで。

先の衆議院選挙で顕著だったが、リベラルはこの数年来(あるいは数十年来)、意味を問題としてきた。「左派は経済を語ろう」と左派の内部では言われつつも、そのスローガンは結実せず、結局リベラルは一部を除いて上部構造(マルクスならば「ブルジョワ道徳」と切り捨てたかもしれない)のみを問題にしてきた。つまり、アイデンティティを。

そしてアイデンティティ・ポリティクスを推し進める構築主義者が再三強調してきたように、アイデンティティは構築された意味であり、したがって伝統的・法的・政治経済的に規定されたものにほかならない。ただし、だからといってアイデンティティをめぐる主張、ポリティカル・コレクトネス、被抑圧者の解放、不平等の是正の試みが無効ということにはならない。以下の記述によって誤解されたくないので先に言っておくが、私はあくまで「正しさ」の側に立つ人間であり、あらゆる抑圧や暴力の根絶を目指し、人権の拡大のために闘争しようとする人間、あえて一言で言えば左翼である。

だが、この闘争の意義を理解できるのは、そもそも「意味」を剥奪されていない人間だけだろう。だが先に述べたように意味はすでに中央集権化されており、「周縁」に住む人間にとっては理解できぬものになっている。あえて類比的に言うならば、人権の問題は、もはやたんに都市のものであるかのように見えるのである。

実際、「周縁」に住む人間——これは類比的な言い方であり、実体的な意味ではない。実際には都市の内部にも中心と周縁が存在し、網目状の相関図を描く——、あるいは「実在」の手触りに触れていると自認する人間は、意味の争いを認めないだろう。これはまったくの方法論的な仮定だが、彼らはあなたにこう「正しくない」語調で語るかもしれない。夫婦別姓だの性自認の問題だの、というか人権だの、「そんなものは教科書的な戯言であり、机上の空論だ、実際にモノを作り、稼ぎ、家族を養っているのは自分たちじゃないか」と、さらには「お前はそのモノを食ったり使ったりしているじゃないか」と。つまり翻訳すれば「それは単なる意味であって、だからこそ意味がない、実在にこそ意味があり、その実在を支えているのは自分たちじゃないか」と。

ここには、「あそこには何もない」と語ってきた私たちの図式の逆転がある。私たち都市生活者は場所を意味で捉え、実在しているものに目を向けず、むしろ意味にこそ意味があると捉えてきた。このような記号的認識にとって、人間は生まれながらにして権利を備え、ものを考え、尊重されるべき個々のアイデンティティをもち、自由に向けて努力する存在である。ところが実在的認識にとっては、むしろ意味には意味がない。人間とは単に飲み食いし排泄し性行為する、多少は個体差のある肉塊である。

この実在的認識に真実を認める者にとっては、下部構造こそが意味である。しかし事実、実在的認識の特権化は単に誤謬である。

あらゆる「実在」は、それがいくらありありと現れているにしても、それがある程度分節化されて私たちに対して対象として現れている以上、「意味」である。すでに述べたように、だからそれは政治経済的・法的・歴史文化的な規定を免れてはいない。これまで私は「実在」と「意味」を対立的に語ってきたが、もはやその仮定は通用しない。実はそれは濃淡や程度の問題に過ぎず、はっきりとした対立は存在しない。「端的な実在的認識」などない。意味の外のどこかを探せば無意味な物自体が見つかるわけではない。完璧に「意味」がない空間や場所もまた存在しないのだ。

そして、人権を持った法的主体を仮象として、それ以前の「自然な」「本来の」主体を真理としたり、あるいは観念よりも手触りをこそ真理とする根拠など、実はどこにもない。このような実在論は単なる不当な操作であり、たしかに素朴な誤謬に過ぎない。——しかしそれでいいのだろうか。

複数の非対称性

「中心」に住み「意味」に首まで浸かっている者が、こうした実在的認識を浅薄なリアリズムとかルサンチマンとして糾弾することは非常に簡単だ。だが、さらに、そもそもなぜそのような誤謬が成立しうるのかを考えなくてはならない。たいてい、誤謬はそれ自体で幾分か真理を含んでいるからである。

それが虚偽だとしても、その認識が「あるかのように」機能している時点で、分析に値する(事実、人権もまた単なるフィクションだが、それは「あるかのように」機能するし、するべきなのである)。私たちはそれを単なる浅慮として否定できるだろうか。このような誤謬は、都市が実在と意味の双方を「周縁」から剥奪しつつ「バックヤード」化し、依存してきた暴力の帰結として成立するのではないだろうか。そもそも、その背景には非対称性があったのではないか。

したがってここには複数の非対称性を認めなくてはならない。少なくとも、たとえば、マジョリティ/マイノリティの非対称性、都市/地方の非対称性、さらに資本家/労働者の非対称性など(先進国/発展途上国、戦勝国/敗戦国なども考慮されるべきだろう)。

こうした複数の非対称性の関係は、完全のひとつの抑圧−被抑圧の関係としては理解できない。当たり前だが、差別は「都市に住むマジョリティの資本家が地方に住むマイノリティの労働者を抑圧する」という典型的な形態のみをとるわけではないのだ。そのような事態そのものはありうるが、それは可能性のひとつである。このような複数の差別は、それぞれ非常に複雑に絡み合い、交差し、意識/無意識を超えて、込み入った利害関係と抑圧関係を成立させる。ここでは、当たり前だが、ある被抑圧者と別の被抑圧者の利害が一致しないことのほうが多いのである。

そしてさらには、厄介なことに、どれかを普遍的な「原−暴力」として採用して他の抑圧を派生的なものと見ることもできない。たとえば、経済的差別を根源的差別として規定し、アイデンティティ・ポリティクスを単なるブルジョワ道徳として退ける原理主義的左翼の所作は——いくらか認めるべき「実践的」価値はあるとはいえ——不当である。

ある局面で被抑圧者であった者があるときは抑圧者であることはありうる。一見抑圧者であるものがある側面において被抑圧者であることはありうる。したがって、「あらゆる抑圧や暴力の根絶を目指す」こととは、ある種の困難な使命に、ある意味では大きすぎる責任に応答することである。もはや、いかなるむごい暴力に立ち会ったとしても、それでも加害者と被害者を単に一面的・一方的なものとは捉えないように努力しなければならないからだ。もちろん明示的な暴力に対する責任は追求されねばならないが、それでも、それが単なる断罪や報復に終わることのないよう細心の注意を払わねばならない。私たちは個々のケースを精査し、その背景にさらに広がる暴力の複雑な関係図を明らかにし、判断を下し、利害を繊細に調整し、その複数の暴力の根絶に向けて——個々のケースにおいて——働きかけなくてはならない。

だからもはや、何か大いなるひとつの「巨悪」を設定してそれと戦う、というような安易なモデルを積極的に退けよう。何か大いなるひとつの「巨悪」——資本主義であれ男根主義であれナショナリズムであれ天皇制であれ——を廃絶し根絶すればいつの日か全てが解決する、というような、捨て鉢な終末論的楽観をもはや捨てること。複数の差別に対する抵抗を組織すること。

はっきりいって、この数年来、リベラルが「勝つ」ことができなかったのは、アイデンティティ・ポリティクスを非常に単純な形でスローガン化し、抑圧関係・暴力のあり方を一面化したことに起因する。まるで暴力の形態がひとつしかないとでも言いたいようだ。リベラルは意味の暴力にのみ目を向け、その外部に広がる複数の暴力の交差に目を向けなかった。もちろん、このようなスローガン化(あるいは「ハッシュタグ」化!)が、まったく誤っていたとはいえない。それは良くも悪くも連帯のためのわかりやすいフックとはなりえたし、そのことによって、ある特定の被抑圧者が声をあげやすい環境が徐々に作られ始めている。その環境づくりはさまざまな場所で推進されなくてはならない。

しかし一方で、その単純化が、まるでマジョリティは悪でマイノリティは善とでもいうような、新たな規範を復権させてしまう危険は十分にある(その危険が察知されているからこそ、リベラル政党は選挙で勝つことができないのである)。実際それはきわめて危険であり、そのような規範が成立したときにこそ、フランス革命以来なされてきた解放の努力は水泡に消える。差別構造はむしろ見えなくなり、あとは、憎み合うもの同士の規範の押し付け合い、たんなる諸力の闘争が始まるだろう。

(しかし一方反リベラルの勢力はといえば、しばしばこうした複数の暴力の存在に気づきながら、自身にとって身近な暴力のみを特権化し、誤った手続きで「真理」として扱い、他は仮象(「自己責任」)として扱うことでリベラルを相対化した気になり、リベラルと同じ——よりタチの悪い——過ちを繰り返す。)

このようなスローガン化は、観光地が、観光客に向けて特定のモニュメントのみを——わかりやすい「意味」のみを——紹介し、その外部はないかのように振る舞うのと似ている。だが、やはり意味の外部にはきわめて無意味的な光景が広がっている。実際のところ日本のほとんどがそのような「周縁」であり、選挙が残念ながら数の争いである以上(もちろん、この選挙の構造を変えるための政治学的・法学的努力は必須である)、私たち(左翼)が勝つためには、そもそもこの都市と郊外の意味の収奪関係に目を遣り、その風景を見ながら、別のケアを提案する必要がある(その意味においてこそ、経済政策を押し出すことには意味があるのだ)。言い換えれば、別の非対称性にも同じく抵抗しなければならない。そして、多くの人間に、自身が差別の当事者であり、場合によっては被抑圧者でさえあることを、まず気づかせることから始めなくてはならない。

私たちはまず、このような複数の暴力が併存しているこの風景に目を見遣るべきである。すべてが「意味」でしかないとしても、その意味の外部の存在をつねに感じ、意味と意味の連結部に広がる無際限な無意味を認め、その風景に「後ろめたさ」を感じるべきである(注1)。そして同時に、あらゆる実在的認識が実は記号的認識でもあることを確認し、周知していくべきである。私はそれを教育あるいは啓蒙と呼びたい。

そのためにはまさに、あの「何もない」風景を体験しなければならない。

周知のように現象学者フッサールは、認識における自然な態度を一旦括弧に括り、端的な実在についての判断を停止することで、認識に現れる意味の次元の分析に専念するという方法論を発明した(いわゆるエポケー)。それは方法論であり、フッサールは実在を捨てたわけではない。そして、連帯のためには、もはやそれとは逆の道もまた必要である。すべてが構築された意味だという前提から出発して、一旦意味の外部があるかのように仮定すること——その方法論を、私はあまりに短絡的な仕方で、タンデムの方法論と呼んだのだ。

こうしたことをツーリングの途中で考えた。しかしそのような方法論を確立するにはまだ早すぎるだろう。ひとつずつ進めていかなくてはならない。たとえばまず何よりもあなたに必要なのは、タンデムに連れ出してくれる友達である。批評や運動がひとりでできるものではないのと同様、ツーリングもまたひとりで行くべきではないのだろう。

(了)

(注1)この文言は東浩紀・大山顕『ショッピングモールから考える』からの引用である。「日本の高度経済成長は朝鮮戦争から始まった。そもそもその成り立ちからして危険というか、その後ろめたさの感覚が、一九八〇年代くらいまでは残っていたんじゃないかと思うんです。自分たちは他人を不当に犠牲して、その上で成功しているという感覚。しかしゼロ年代あたりになると、「おれたちはこんなに虐げられているのに、なぜ後ろめたさなど感じなければならないのだ」という気分が蔓延してくる」(東発言)。概して楽観的にショッピングモールの魅力を語るこの本だが、そもそもこの本全体に——たとえばホームレス問題などをめぐって——「後ろめたさ」の感覚があるように思われる(例えば、東京は地方からの視線をつねに受けている、という発言がある)。東の都市中心主義的・消費第一主義的な議論において、この「後ろめたさ」はある種のギリギリのバランスを保つ「倫理」であると思われる(大山にはそれが欠落している)。ただしこの点は東自身の言動にも起因してか、あまり顧みられていない。この著作については過去の読書会で取り上げられており、近代体操のNoteには報告記事もある。

(文責 - 左藤青


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