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「なぜか、なぜか」と問うことなかれ~「何のために」と問い始めたら、「ずれている」サイン。

聖書の中に書かれてある一文。

「汝、なぜかなぜかと問いかけることなかれ」

「どうして~なのか?」
「なぜ~をするのか?」
「何か意味があるのか?」

問いの形にはなっていますが、つまるところ、「やりたくない」「納得していない」というような、「受け入れたくない」という気持ちを、問いという形で示している状態です。

あるいは、「~のため」という、自分が納得できる答えの提示を受け、ちょっと安心し、価値を確かめてから動きたいという、不安ベースで生きている状態ともいえます。

では、問わずに生きている人ってどんな人でしょうか?

 子供達は、毎日、毎日、飽きもせず同じことを繰り返して遊んでいます。
「何で~しているの?」と聞くと、「楽しいから」「面白いから」という答えが返ってきました(笑)。理由なんていらない状態です。

 大人になると、頭で考えて、「運動になって、体を丈夫にする」「遊びの中で人間関係がうまくいくようになる」など、理由付けをしますが、それは、付け足しにすぎません。
 むしろ、楽しくできないから、そのものになりきれないから、頭で考えて「何のために」と答えを出そうとするのかもしれません。

 昔のお寺や料理人の修業では、ひたすら掃除や鍋磨きなどをさせられることがありました。
 
その時に、たいていは、「何のためにそれをするのか」を教えてもらえません。

 だから、その修業の最中に、逃げ出す(やめる)人が多くなると聞きます。

 ある意味、理不尽なことですが、本当に覚悟があるのかを試されているともいえます。

 「料理を教えてもらえず、何で鍋磨きばかりさせられるんだ」と「何のために」を考え始めると、目の前の事に集中できなくなります。

 坐禅の修業で、坐禅を続けていると、頭のおしゃべりが静まっていき、「成りきる」「一つになる」と表現されるときがあります。 

一つになる時、「何のために」と問う自分も「消えている」状態です。

 逆に言うと、「何のために」問わずにいられるということは、それだけ、目の前の事に集中している状態なのかもしれません。

 「何のために」を問いだすときは、たいてい、不満や文句が心の中にあります。

 「幸せって、なんだろう」と問うているときは、たいてい「不幸を感じている時」です。


 幸せの中にいる時は、問うことすらしません。
 
 病気もせず、元気な時は「健康とは何か」と考えません。
 たいてい、病気やけがをして、健康のありがたみを感じた時、問います。

「何のために」「なぜ」「どうして」と頭の中がうるさくなり始めてきたら、目の前の事に集中していない、わくわくしていない、なりきれていないサイン。
 
 ちょっと見方や考え方を変えて、無我夢中になっていたら、問いは消えていきます。そして、消えた時、パフォーマンスも上がっています

皆様の心にのこる一言・学びがあれば幸いです
 

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