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織田信雄と側室・久保三右衛門娘について

今回は織田信雄と側室・久保三右衛門娘壽徳院について呟いて行こうと思う。織田信雄は毀誉褒貶激しい人物であるが調べれば調べるほどその立ち位置や内政、文化面等奥が深く大変興味深い人物で個人的には一番好きな戦国武将である。信雄もまた事績などは様々な媒体で既に触れられているのでここでは個人的に興味を持った事柄について触れていきたい。


織田信雄と側室・久保三右衛門娘壽徳院(イラスト:青森様)

<略歴>
織田信雄は永禄元年(1558)、織田信長の次男として誕生。幼名は茶筅丸。大河内の戦い後の永禄12年(1569)北畠具教の嫡男・北畠具房の養子となり、同時に具教の娘千代御前を娶る。
天正4年(1576)の三瀬の変で北畠具教及びその一派を粛正(その際義父の具房と正室の千代御前は助命されており、特に千代御前は引き続き正室として尊重されている)。以後は公家でもある名門北畠の当主及び織田一門の筆頭として名実ともに歩みを進め、大坂方面や志方城攻め、有岡城攻めに参加している。一方で天正6年(1578)の第一次伊賀の乱では家臣の進言もあり信長に無断で攻めて大敗し、信長より叱責を受ける失態を犯している。それでも天正9年(1581)には正式に信長の命で第二次伊賀の乱で総大将となり、今度は無事成功している。
天正9年(1581)の京都御馬揃えでは当主信忠に次ぐ連枝衆として30騎を率い、一門筆頭の立場であったと分かる。
天正10年(1582)の本能寺の変では土山まで進軍したことが確認され(『勢州軍記』)、またルイス・フロイスの『耶蘇年報』では安土城を信雄が焼いたとしているが『耶蘇年報』では「市にも放火した」とされているが本丸以外に火の手はまわっていないことが発掘調査等で確認されており、そもそも当時フロイスは九州にいたため記述には大いに疑問があり可能性は皆無に等しく信雄犯人説は否定したい。

本能寺の変後の四宿老(柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興)による織田体制では尾張一国を加増され居城の松ヶ島城から清洲城に移り、同時にこの時期に北畠から織田に復姓したと考えられる。内政では二度の検地を意欲的に行って統一的知行制を実現し、織田信雄分限帳が残るように詳細な知行及び宛行を行うなど優れた手腕を発揮している(加藤益幹 『織田信雄の尾張・伊勢支配』参照)。
当初は新当主の三法師を支える一門という立場であったが柴田を除いた三宿老により織田家名代に担ぎ上げられる。これで信雄は事実上の織田家当主となり、天下人と呼んで差し支えない立場となり、さらにこれに異を唱え三宿老と対立した柴田勝家及び織田信孝を翌天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いで倒すと名実共に天下人となる。しかしこれはあくまでも名目上のものであり実態は羽柴秀吉による単独執政体制となっていた。
この年の暮れ頃までには秀吉により信雄は安土城を退去させられ、また事実上臣従を迫る旨を伝達される(ルイス・フロイス書簡『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)など両者の対立は決定的なものとなる。
この事態に対して信雄は清洲城からより要衝である長島城に居城を移し、秀吉と誼を通じた津川義冬、岡田重孝、浅井長時の三家老を徳川家康と相談の上で粛正し家康と手を組んで秀吉と対峙する。こうして始まった小牧長久手の戦いでは局地戦では優位に戦いを進めるも大局では国力に勝る羽柴有利は覆し難く、また信雄本国の伊勢に集中攻撃を行う方針に切り替えたことでいよいよ劣勢となり最終的に事実上の降伏勧告を受け入れ講和を結ぶこととなった。これを家康に無断で行ったとも言われるが家康は石川数正を信雄のもとに派遣して和睦の成立を祝っており、この見解には議論が必要であると思われる。また柴裕之氏は臣従後信雄は正式に織田家家督を継いだと考察しており、個人的にも同意見である。

秀吉に臣従後は旧主かつ主筋として尊重を受けつつも家臣として豊臣政権の一員に組み込まれ、天正13年(1585)富山の役では総大将として佐々成政を臣従させることに成功する。天正14年(1586)の天正地震で長島城が損壊した後は改修した清洲城に再び居城を移す。また徳川の豊臣臣従交渉においても成功させており、取次として立て続けに功績を上げている。官位面においても一貫して家臣筆頭に寓され、天正15年(1587)11月19日には正二位内大臣となる。戦国から織豊期の武家で大臣にまで昇ったのは信長、信雄、秀吉、秀次、秀頼、家康、秀忠の7人のみであり、この中でも臣下として昇ったのは信雄と家康のみであるので別格の扱いであったことが分かる。天正16年(1588)の聚楽第行幸では武家筆頭かつ内大臣及び公卿として参加している。またここで徳川らとともに豊臣政権において武家最高峰の家格である武家清華家の一員に列す。『フロイス日本史』によると「暴君(秀吉)は徳川家康、織田信雄、宇喜多秀家、豊臣秀長、豊臣秀次が居並ぶ金箔の広間で短い演説を試みた。"予の余命は幾ばくもない。列席の5人のうち1人が天下の主となる。誰であろうとも内裏を絶対君主として尊崇し奉るよう格別配慮をお願いする。"」と記されており、この「列席の5人」が後の五大老の源流にあたるのではないかと個人的には考察する。
天正18年(1590)の小田原攻めでは当初韮山城攻めの総大将を務めるも戦後徳川旧領への転封を拒否し改易される。その後(時期に諸説あるものの)出家し常真と名乗り、佐竹預かりで下野烏山、常陸、出羽天瀬川に流された後家康の仲介で赦免され朝熊、堺を経て伊予石手寺に隠棲する。何故伊予に隠棲したかについては史料になく不明な点が多いが当地で正室千代御前が亡くなっていることから千代御前の湯治も兼ねていた可能性がある。
その後は秀吉の御伽衆に加えられて貴人として寓され、また能の名手であるなど文化人として造詣深かったことから禁中能などに参加し活躍している。嫡子秀雄も越前大野五万石を与えられるとともに参議に任じられ公卿成し、赦免後は織田家としても武家清華家に復したと考えられる。

秀吉没後の関ヶ原の戦いでは西軍に与し改易となり、従姉妹である淀殿の計らいで大坂城に入ることとなる。大坂では片桐且元とともに穏健派に属するも慶長19年(1514)の大坂の陣では一時総大将に担ぎ上げられそうになり(『駿府記』)、また片桐暗殺の報を聞き片桐の弁護及び危機を伝えた後大坂城を脱す。同年10月26日に五山の僧とともに家康と面会し、知行を約束されるとともに翌元和元年(1615)3月17日に駿府で家康と謁見した際には大久保長安の邸宅(駿府の屋敷?)が与えられる。そして大坂の陣後正式に大和宇陀松山五万石を与えられ、正式に大名に復帰した。

大名復帰後は京都北野の邸宅に滞在する。佐々木高一、生駒範親ら老職は引き続き信雄に近侍し、甘楽小幡では四男(三男説あり)で継嗣である信良が、宇陀松山では中老である田中清安、生駒正勝、生駒範旦らを通じて統治を行った。寛永3年(1626年)の信良没後は加賀藩士となっていた五男(四男説あり)高長を呼び戻し名代としている(信雄没後高長は正式に宇陀松山の藩主となり、宇陀松山藩と上野小幡藩に分裂する)。宇陀松山藩(及び後の上野小幡藩)は国主待遇となるなど江戸幕府からも引き続き厚遇され、それを見届けた後寛永7年(1630)4月30日に信雄は京都北野邸で73歳の生涯を閉じる。

<家臣団の構成>
織田信雄は前述のように織田氏から北畠家に養子入りしており、当然家臣の中枢は織田家と北畠、特にその支流の木造家の人物が中枢であった。
織田家からの代表的な家臣は土方雄久が挙げられる。土方は北畠一門粛正や三家老粛正に関わり、豊臣と徳川の和睦交渉にも滝川雄利とともに尽力する。領地でも信雄より尾張国犬山城4万5000石を与えられるなど後述する滝川雄利とともに信雄の家老では双璧を成す筆頭格であった。
木造系(のみならず信雄家臣団)では滝川雄利の存在は外せないだろう。雄利は木造一族で、元は出家して源浄院主玄という僧であったが還俗後は信雄の右腕として活躍する。具体的には北畠具教暗殺の主導、第二次伊賀征伐では北畠のみならず長野氏勢力すらも統制、前述の三家老粛正の際にも他三人と異なり秀吉に誼を通じずこれを信雄に通報した。豊臣と徳川の和睦交渉でも土方とともに尽力してこれを成功させるなど筆頭家老どころか執政と呼んでも良い立場であった。
雄利以外の木造一族としては木造具政がいる。具政は北畠具教の弟で北畠家の支流で北畠と同じく公家の家格を有する木造に養子入りしていたが具教とは折り合い悪く度々対立しており、伊勢侵攻においても織田方に与している。また具政娘は信雄の側室(のち継室)にして信良の生母となるなど木造家の影響力は信雄家臣団において相当強かったと思われる。これを表す出来事として天正4年(1576)の権力闘争で信雄傅役である津田一安が滝川雄利とその親族の柘植保重に讒言され粛正されるが、小川雄氏はこれを信長に事後承諾させた可能性を指摘している(小川雄氏「木造具政-北畠氏の有力庶家から織田信雄の後ろ盾へ」)。また前述の粛正された津田一安及び三宿老は全て織田系であり、木造系が粛正された形跡はない。前述の三瀬の変に関しても北畠具教が和議当初から織田に悪感情を抱き武田と通じたのが決定打ではあるものの、始めから織田に協力的であった木造とそうでない具教らの家中争いの側面も強い。
これほど強い家中で強い力を持ち、尚且つ協力的な木造氏と結び付くことは信雄(及び信長)としても伊勢を円滑支配する上で不可欠なものであった。

<織田家名代就任時の状況>
清洲体制で新当主三法師を盛り立てる体制が発足するものの、織田信孝が三法師を岐阜城から手放さない事もあり柴田勝家を除く三宿老(羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興)により織田家の家督名代に擁立される。しかしこれは完全に三宿老側の都合であり、信雄の当主としての立場は当初から不安定なものであった。
もう一つ不安定さの大きな一因として挙げられるのが「北畠からの復姓して家督を継いだ」点である。当時の家督継承優先順位は
①生母が正室の嫡子
②嫡子の同母弟
③生母が側室の庶子
④嫡庶問わず他家に養子入りした子息
であり、他家を見ても嫡子の系統である吉川ではなく庶子の子息ながら毛利の継嗣となった毛利秀元や同じく庶子ながら岩城氏を継いだ兄やその子息を差し置いて継嗣となった佐竹義直の例を見ても信雄の家督継承がいかにイレギュラーだったかが見て取れる。信雄と同じような形で家を継いだ武田勝頼も同様の問題を抱え苦労しており、それだけ他家に養子入りしたものが出戻り家督継承はハードルの高いものであった。
家臣団でも三宿老始め織田譜代は完全な外様であり、信雄としては当然滝川雄利らが最も頼りになる存在であった。小川雄氏は信雄が雄利らの重用が不支持に繋がったと推測しているが譜代の側近は政権に必要不可欠であり、最も短期間で終わった信雄政権で重用が不支持に繋がるほど時間があったのかは精査が必要である。
いずれにせよ織田信雄政権は政権を支えるはずの三宿老、特に執政の秀吉に安土城を退去させられ梯子を外された時点で崩壊は避けられなかったと考えられる。

<居城の変遷>
信雄の居城は大河内城→田丸城→松ヶ島城→清洲城(第一期)→長島城→清洲城(第二期)と移り変わっている。このうち大河内→田丸は支配確立、田丸→松ヶ島は火事のため、松ヶ島→清洲は尾張統治及び織田一門として由緒ある清洲に座すため、清洲→長島は秀吉との決戦を見据えて、長島→清洲は地震の影響とそれぞれ考えられる。
松ヶ島城は五重天守を備えたと言われ、また長島城も天正地震の被害状況から天守の存在が明記されている。改修後の清洲城(第二期)に関しても清洲城小天守を移築した清洲櫓の解体修理調査で「高欄」の金具跡が材料としつ使用されていることが分かっており、清洲城が高欄廻縁の天守が存在したことが判明している。

<文化人としての織田信雄>
織田信雄は文化人としても高名で特に能の名手として知られていた。竹本千鶴氏の『松井友閑』によれば、文禄2年(1593年)に秀吉主宰の天覧能を観覧した近衛信尹は「常真御能比類無し、扇あつかひ殊勝ゝ」と信雄の能を高く評価した。聚楽第で催された能においては「殊に常真は龍田の舞に妙を得て見るもの感に堪たり」と『徳川実紀』に記されており一流の名手だったことが一次資料からも見て取れる。また『観世流仕舞付』で信雄の発言が能役者にとって貴重な指針になっていたとされており、当時の能役者から見てもプロ顔負けと言えるほどの技量の持ち主であったことが伺える。個人的には細川幽斎の和歌や有職故実までは行かないまでも織田信雄の能楽に関する研究がより進展すると嬉しい限りである。

<織田信雄の身長・体格>
武将の身長や体格を推測する方法は甲冑の胴高が挙げられる。織田信雄所用と伝わる丹波市立柏原歴史民俗資料館蔵の「黒糸威二枚胴具足」の胴高は38cmである。胴高は伊達政宗の甲冑と同じであり、政宗の身長は遺骨から159.4cmと確定しているので織田信雄の身長も159cm前後と推測出来る。
父である織田信長は165〜169cm程の当時としては長身であった(諸説あり)と推測される為信雄は父より一回り小柄であったようである。ただし当時の平均身長は157cm前後と言われており、信雄の身長は同時代の平均か少し高い程度であったと考えられる。
容貌や体格は肖像画を見る限りやや丸顔の中肉中背で、貴公子然とした気品溢れる印象を受ける。

<信雄側室・久保三右衛門娘壽徳院について>
信雄の側室である壽徳院は信雄(のち前田家)家臣の久保三右衛門の娘で、天正18年(1590)に信雄五男(四男説あり)である織田高長を清洲で出産している。法名は壽徳院、没年は寛永二十一年(1644)である(出典は泰巖宗安記様の織田高長母の頁より引用)。
生年に関する史料は探した限りないが没年や当時の女性の婚姻年齢から推測すると高長出生時は18歳前後(これに従えば信雄とは14歳差となる)、元亀3年(1572)生まれで享年は72歳前後であったのではないかと推測する。
織田信雄の妻妾として記録に残るのは
正室・千代御前(北畠具教娘、秀雄・小姫母)
側室のち継室・木造氏(木造具政娘、信良母)
側室・久保氏(久保三右衛門娘、高長母)
側室・津田氏(津田長利娘、信為・良雄母)
側室・織田氏(織田下野守信清娘、高雄及び四女母?)
の五人である。このうち千代御前と木造具政娘は北畠関係、津田氏及び織田氏は織田関係の女性であり、婚姻背景には北畠(木造)家中との縁戚促進や特に本能寺の変後の織田一族との関係活発化が見て取れる。
そんな中で久保三右衛門娘は唯一の北畠(木造)でも織田でもない一介の家臣の娘であり、身分だけで言えば他の正室や側室よりも劣る立場にあった。そもそも父親の久保三右衛門自体信雄家臣で信雄改易後は前田家に仕えた以外(調べた限り)事績がはっきりせず、また恐らく信雄家臣の久保勝正と親族であると考えられるが具体的な関係は不明である。久保三右衛門娘・壽徳院が側室となった背景は単純に信雄の好みで見初めて側室にしたのではないかとも考えられる。事実嫡子信良没後の宇陀松山藩名代には津田氏娘(織田氏の庶流で信雄の従姉妹)所生である信為や良雄を差し置いて久保氏所生の高長が就任しており、また没する際見舞いにきた高長に正式に宇多領を相続させたことからも久保氏への寵愛の深さを伺うことが出来るのではないだろうか

以上のように織田信雄及びその側室である久保三右衛門娘について気になった点を述べてきた。織田信雄は豊臣家・徳川家との関係等他にも興味深い点が多々ある人物なのでまた個別に呟いて行ければと思う。

【主要参考文献】
・柴裕之『清須会議』(戎光祥出版、2018年)
・柴裕之「織田信雄の改易と出家」(『日本歴史』2019年12月号)
・秋永政孝 著「国立国会図書館デジタルコレクション 織田氏の入部と松山藩の成立」、児玉幸多; 北島正元 編『物語藩史 第2期 第5巻 (近畿の諸藩)』(人物往来社、1966年)
・竹本千鶴『松井友閑』(吉川弘文館〈人物叢書〉、2018年)
・加藤益幹 著「織田信雄の尾張・伊勢支配」、有光友学 編『戦国期権力と地域社会』(吉川弘文館、1986年)
・小川雄「木造具政-北畠氏の有力庶家から織田信雄の後ろ盾へ」(『戦国武将列伝6 東海編』、戎光祥出版、2024年)
・「柏原藩史」(『奈良縣宇陀郡史料』、奈良県宇陀郡、1917年)

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