自助と学問的な話。日記


 私は発達障害の不得意をカバーしてもらう為に幾つかサービスを出費を惜しみつつ利用している。通院も含めた提供されるサービスの中でよく軽率に「自立」について諭される事がある。やれ8050(ハチマルゴーマル)問題だの収入の額面だの生活面での多くをそれはもう丹念に。

 それらの話を聞いていて、発達障害者の自立と労賃の額が関連性の有る社会問題なのだとしたら一体当事者に何が出来ると夢見ているのか気になって仕方がない。そりゃあ私個人の話なら年金なんかに左右されないくらい労賃が高けりゃ解決するんだけど、それが出来ないからと言って安直に生活保護の話を始められて、且つそこに自立と言う語句を用いて良いか悪いかくらい常識で考えてくれよと思う。

 よしんば私が最低限の生活を保障していただけて毎日生きる上で支障が無いなら支援としてはクリアなんだろうけど、私より後代に出てくる発達障害を抱えた人々はどうなるのか。社会的なポジションを多様に取ってくるのに。

 多分こういうやり方は「済し崩し」であって「自立」じゃない。「賭け」であって「支援」じゃない。「転嫁」であって「解決」じゃない気がする。そういう意味では何も深く考えずに子供を授かってしまった親がいた場合、図らずも不完全な反出生主義に一部の自己主張を任せたくもなる。

 多くの精神科医も発達障害者に纏わるサービスを提供する組織も社会問題の解決なんざ真剣に考えてないんだろうと思ってしまう。選挙で解決するなら政治的事情と医療を切り離すなんざ潔癖症じみた事を言っている場合ではなかろうし、新たな分野での知識が必要なら勉強会などの為に環境を整備する予算を取ってくるべく奔走しなきゃだろうなのに、言うに事欠いて「自立」なんて。当事者が労賃を上げて貰う為に労働組合作るんだって言ったら支援してくれるのかな。応援じゃなくて。

 上記の前提を加味した上で今度はコミュニティについて言えば、過剰な制限がかかっている環境下で幾ら話し合いの場を設けたって、そもそも事態の改善に興味を持っていなければ医療的な団体ですら役に立つかは微妙だと偏見として思う。社会問題の解決に興味がなければ新たな知見・知識の流入が無いまま延々と空転する精神論と根性論に終始するのだろう。少なくとも私より若い人間にそんな事はさせないで欲しいと思ったりする。

 とはいえ当事者は殆ど孤独に近い。仮に当事者同士が集まるのだったら医者ともう一つ、真っ当な学者をそこへ招ける状態が望ましいように思われる。道のりは長いかもしれないが、後々の世代の為のそういう投資くらいはやらせてもらえる環境が欲しい。私個人では寧ろこういう能動的な形は自立に近づけると愚考している。専門家じゃないので真偽は知らんけど。

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