政治家の尻を拭う者について。日記。

どんな職業にも理想を言えば適した人格が求められるべきであろう。けれども人格を雇用主へ供せよと鞭を振るったところで錆のように剥離するものではない。しかし共同体の健康を気にするならそれでも希求せられるような、謂わば生き様と神への信仰に似るほどの何某かが無ければらない。

今の世で言われる「責任」という語句の概念は実に短い時間に押し込められるようになっている。というのも被害者と加害者にそれぞれ慰めと罰を与える法律及び法律家達は、当事者が刹那に抱く怨憎も悲哀も慟哭も悦楽も断末魔さえ、時間を問わない事で埋め合わせが可能だという虚妄へ信仰を傾けているからだろうと思う。つまり、自業自得という有機的体験からの習わしを押し退けて国家が争いを中和すれば博愛が実現されうると信じて止まない。

責任とは金銭で賄える範疇を超えてから重みを増すはずだが、現代の法の殆どは金銭で免罪を売り、効力を権力と暴力で保証する。謂わば傭兵や用心棒や賊徒の真似事をしている。これを見た人々は即座にその本質を見抜いて「力は責任を付与できる」と学習したようだ。

それ故に、道義は蜃気楼と化して却って責任の本質を有耶無耶にし、回避する手法がいくつも考案されている。学習した人々は回避を一層巧みにするので、とうとう残酷な話だが子供の頭脳で大人の体格を纏う結果を受けた。

ところで、昨今の妙な言説に「こんな政治家を選んだのは我々の責任だから」というマゾヒズムを極めたようなものが見受けられる。この思想には先述の通り学習が見て取れる。責任は付与するものであって果たすには及ばない。そういう学習が。

政治家を選んだ責任なる虚妄が百歩譲って仮に存在を認められたとして、その責任を果たすにあたって適切な行動は権力の横暴を許容する事なのだろうか。政治家の横暴を許すとは政治家を選ぶ権利を放棄するのと何が違うというのか。

結局、責任という概念が自然に湧くという虚妄は時間感覚の薄弱化が招くのであり、知識は薄弱化を補うに能わない。何故なら知識は前科など持つはずがないからである。

時間感覚の弱い人間は時間から隔離された知識の海を彷徨っていて行為それ自体を追う事ができない。行為とは、延いては動きとは、映画のように一コマずつを順次なぞって初めて認知されるからだ。従って事の顛末より結果に注目しがちになるので責任についての知識を振り回し始めるらしい。

これらの問題の要は、知識の海の住人は合切の行為に一切の性格的要素を感応させていない点だろう。この状態は単に不干渉を貫いているだけだがこれをしていると何やら「理性」に似るので、どうせなら理性という解釈で得をしようと一層醜態に磨きをかける。皮肉な事ではあるが、この結末は知と現象の乖離を突き付けられるのみとなる。このままで人格が刺激される事は無い。依って成長と思える変化なども無い。

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