主観と苦痛について。雑記。

物事を主観的に見る事と認知を歪ませて事実を曲解する事(※以下偏見)には、溶けた金のように人間にある種の斥力を与えているかもしれない。触れれば爛れ、遠退けば惜しい。

最近は異世界転生という創作ジャンルの中でも原点にありながら異端視されつつあるのが、細かな設定を満載した取扱説明書型(※以下取説型)の物語かと勝手に考えている。最近は主人公を一旦トラックの轢かせて、何らかの聖性を帯びた存在が面倒ごとを一手に担うパターンが多く見られるが、原典に近い方の取説型が嫌厭されるに至るのも何となく理解できる。

私が個人的に想定できる偏見としては、取説型はまず主観的であるしかない運命をハンデとして背負っている点だろう。物理学が観測され得る人類史上の最高記録を日々更新して行く今日だからこそ、世界自体をモデル化する事は生半な事ではない。ましてや未知を映像ではなく文字に落とす事は人間の生育段階の真逆を疾走しているために、読者・消費者はそこへ迎合・同意するかを価値基準を指し引いて決定しなくてはならない。

例えば初めて地球にやって来た者が路傍の石を有り難がるのは可能性があると看做せる。けれど今まで私生活を通じて、詰まりは生命維持の様々なケースを通じて頭に叩き込んだ価値基準を覆そうとする時、転覆成功の可能性がありながらもここには隔たりが高い頻度で約束される。

世間には数カ国語を堪能に操れる人間はいるが、物理法則を真贋の別無く許容して活かす人間は少ない。許容・許すという概念は新しい概念世界が拓けたとしても、それ以前の概念世界から産出された概念である。人間は生まれてから多くの失敗を経験するが、その過程において期待しているほどの頻度で許すという概念は使用されていない。その場では激しい痛みや蝕まれるような悩みが個々人の体を確からしく幾許か訪れるが、それでも失敗という概念とそれへの対抗策が練り上がるまでは許しは大抵使用されない。

順って、無害なフィクションの設定に則して創作物を読みこなす事さえできない人間が客観的であろうと振る舞う時、そこには山積した他者との同意書に再びサインが書き込まれる。要は旧来の概念世界に留まり続けようとする。(以前書いたものの中で自閉的文化という表現で登場させたような朧げな記憶がある...ような...)

こういった人間の限界と人間の社会が歯節へ出すような主観とは、専ら知識不足とか読解力不足とか経験不足を指す概念である為、主観的である事の利点や創造性に関しては唾棄される事も珍しくはない。

ところが、物見遊山に主観性を許容するというのも存外に難しい。理解できる他者の主観的設定は当然旧来の概念世界に依存していおり、それを回避するべく少し主観性を高めるだけでまた赤子に戻ったように1から世界を把握しようとする必要が出てくる。だから自明ではあるが主観性の肥大を伴って取説の紙幅は延長を余儀なくされる苦痛に、付き合い切れるだけの人材が必然的に不足する。

約まり人間は誕生して間もない赤子の頃は旧来の概念世界に生きていて、その知能がヒトの成体未満だったとしても同じ現象がヒトの成体にも起こり得る。然るに主観性と物理法則が乖離した末の苦痛を避ける事は難しい。苦痛それ自体は事後的に観測されるので早期発見とはいかない。

だが逆に言えば苦痛は主観性を高める事で回避し得る可能性がある。主観性を赤子のレベルまで引き上げればもしかすると痛覚の働きと本人の認知を分離させ、注射をうつ時のように苦痛への信憑性を低く設定できるかもしれない。ただ、現時点では主観性を高める為にストーリーが必要かどうかを私は知らない。予測としては必要だったとしてもエビデンス皆無なストーリーで事足りる事例もあるはずだ。



余談だが、多分この一連の駄文の内容は二番じゃ効かないくらい煎じ詰められているはず。ありがちな哲学とか心理学である気もするしなんなら宗教っぽい。自分でも途中までは既に一番煎じてた訳だし。何かからヒントを得て書いてる訳だし。

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