敗北の快楽

 ある物書きはついに白旗をあげた。どれだけ思考を巡らせても露の一滴ほども浮かばず、引っ掛かったものといえば、ガラクタばかりで使い物にならない。ネタをストックするという、生産的な行動が始まる気配はまったくなく、常に、真っ白な世界でひたすら歩き続ける始末であった。
 そこでは思考の選別が行われており、すこしでも目にとまると、ピックアップとリストアップがされるわけだが、今夜は、何時まで経っても真っ白なままである。しかし、刻一刻と後方は崩れ去り、後がなく、時間がなく、余裕は削ぎ落されガラスの脳が空洞であると、証明されてしまった。
 捻り出すことさえ許されぬ状況で物書きは、ついに、敗北を認める他なかった。それは端くれといえど「物書き失格」であり、唾棄すべき卑劣な思考であり、筆を折るに等しい行為であった。例えるなら、上司の態度に憤慨して、怒りを収めることなく己の正拳を上司の頬にめり込ませる暴挙と同じと言ってよいだろう。
 やってはいけない。踏みとどまるべき一線を、越える瞬間。
 それが「書けないことを書く」である。当て字として「敗北」を使うべき禁じ手と言える。とはいえ、物書きは真っ白な思考の世界で、脳が破裂する前にせめて命だけはと、苦し紛れの行動を起こしたのであって、時に、それは許されるべきではないか。
 混迷の時代、寛容こそ肝要である。
 そう自己弁護したところで、明日、天啓のようにアイデアが降ってきて、筆が走り、読者が喜ぶ作品を世に出すことが出来る保証が、どこにある。
 断じてない。
 その事実が頭を擡げ、真っ白な思考の世界でひたすらぐるぐる辺りを周遊しつづけるほかなかった。
 あまりにも疲れ果てたので、物書きは純白のソファに腰かけることにした。傍にはローテーブルがあり、察しがいいことに一杯のアイスコーヒーとミルクチョコレートが準備されていた。
 書けないことを書くと決めた瞬間から、「敗北の快楽」が物書きを支配していた。それはもう、悩む必要はなく、ただ、縦横無尽かつ豪放磊落に筆を走らせていればよい。そんな、自由というより読者に対する不遜な態度であって、許されることではなかった。
 許されないことこそ、快楽である。
 禁断の果実こそ美食における至高である。
 そんな快楽にふけっていると、遠くから声が聞こえる。それは徐々に、そして確実に物書きに近づいている。
 白シャツを袖まくり、ライトグレーのスラックスに革靴。
 それは、彼は、架空の編輯者だった。
 編輯者は、疾風怒濤のいきおいで、加速をつけて、それは光りを帯びたスピードで、拳一点に集中させ、物書きのこめかみを抉った。脳は揺れ、震え、激痛と心中にできた風穴に、一陣の風が吹いた。
 編輯者は、汗を拭ってテーブルにどっかと腰かけた。
「なんですか。この文章は。どういうつもりで、こうなったんですか」
 物書きはどもりながら答えた。
「すすす、すいません。辛くて、つい、出来心で」
「誰に対しての謝罪ですか。読者にですか。そんなもの、誰も求めてませんよ。書いてくださいよ、考えてください。出来不出来ではないですよ」
 ぐうの音もでない正論に、物書きは押し黙った。その上、コーヒーを一口すすり、ミルクチョコレートを齧った。優しい甘味が口内に広がる。
「明日、どうするつもりですか」
「頑張ります」
「答えになってないですよ」
「アイデア出しを今からやります」
「そうですか。それは結構ですね。明日、また、同じようなことがあったら僕は許しませんよ。その場で書きなおしを要求します。たとえ、締切が迫っていたとしても、容赦はしませんから」
 編輯者はそう断言して、その場を颯爽と去っていった。
 物書きは完全に編輯者の姿が消えたことを確認して、ソファに寝転がった。空はなかった。現状の脳内であるから、かぎりなく透明に近い純白であった。
 それはあまりに清廉な雰囲気で、際限のない空間が広がっている。
 そこでふと、これはショートショート、「小説なのか」との問いが浮揚する。物書きは、不安が心に侵入したと同時に閃いた。
「思考私小説」
 これは発明であると、自惚れがひょっこりしたところで、真っ白な世界は崩壊し、空調がよく効いてうすら寒い、万年床香る自室がそこにあった。

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