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人間の、人間による、人間のための生き方 in スウェーデン

出国してから54日目、スウェーデンでの留学生活もそろそろ二ヶ月が経とうとしている。8月の21日からこれまでで沢山の人に出会い、沢山の新しいものを見て感じた。

そして率直に今の感想を述べるならば、特に特別なことなんてない。少なくとも私のスウェーデンでの生活は、どこか日本での日々の延長線上にあって、例えるなら、日本の全く知らない土地で生きるのと何ら変わらない。そのくらいは居心地の良さを感じている。

大学から徒歩20分、いや、ハイキング20分の森の中にある学生寮。昔は熊が住んでいたらしいが、今その気配を感じることはない。少し前に馬鹿デカいウサギは見かけた。噂によれば鹿もいるらしい。そんな森の中を少し山登りすると真っ黄色の建物が四つ集まった窪地に到達するのだが、ここに交換留学生ばかり50人は住んでいる。二階建てで各フロアに一人部屋が八つと共用キッチン、ランドリールームが付いている。

朝、共用キッチンに行くと誰かが朝ご飯を作っていて、今日の予定とか天気とかたわいもない話をする。

リュックを持って外に出れば、他の誰かもちょうど出掛けるところで、挨拶を交わして各々自分の道を行く。

ランドリールームに行けば、いつも忘れ去られた誰かの靴下が洗濯機の中に眠っていて。「誰のー?」とチャットで聞けば、「やば! 忘れてた!」と反応するのはいつも同じ同居人。この前は真っ赤な下着を忘れていた。

夕飯時、大体みんな同じ時間に料理しようとするから、狭いキッチンは大混雑。今日は何を作っているのとか、何をしたとか、誰かが聞きつけてきた耳よりな情報とか、野良猫の集会よろしくガヤガヤ情報交換をする。そして食事の後は皆自分の部屋へ散っていく。

付かず離れず。
時には気の合う者同士、誘い合って飲みに行ったり、自国の料理を振る舞ったり。そうしてお互いの面白いところを少しずつ知っていって、一緒に変な体験をしたりして、悪くない生活だ。

クラスに行けば、隣同士に座ってノートを見せ合う仲間もいる。出席リストのマークを頼んでくる人や、いわゆるヨッ友とか。

実家を出て独り暮らしをしているくらいで、やはりこれまでの生活の延長線上に今がある。好き勝手やりたいことをやって、行きたいところに行って、気の合う友人とは時々集まって出掛けたりして。

でも一つ。やっぱり悩みごとがある。それは――

同胞がいかにトリッキーで最高に厄介な関係であるか、だ。

つまり、正直なところ、ここスウェーデンに来て一番の悩み事は、
日本人との人間関係なのである。

初めましての日本人留学生と、
ことごとく馬が合わない!

日本の大学で学友として出会ったらきっと仲良くはならないだろうなと思う相手と、スウェーデンという異国の地で発生する特殊イベント、それが同胞である。

同胞(どうほう、はらから)
・同じ父と母から生まれた子供の総称。どうほう、はらから。 ⇒ 兄弟姉妹
・上記より転じて、自身と同じ国民や民族などのこと。

Wikipedia

つまり、スウェーデンという異国の地、周りみんな外国人という環境においては、「お互いに日本人である」という事実が特殊なつながりを生んでしまうのだ。

日本人は群れやすいと言うが、この同胞現象は日本人に限ったことではない。どこの国の出身であれ、自国民同士で固まる場面は往々にしてある。同じ国の出身者が二人以上いれば、フランス人でもイタリア人でも韓国人でもドイツ人でも、同胞現象が起きる。

(同胞のいないお一人様留学生は、お一人様同士で集まっているし、現地人を観察すれば、スウェーデン生まれ同士、移民系同士で別々のグループが形成されているのは人間観察として興味深い。が、まあ今回は置いておいて……)

この同胞というもの、
今の私にとっては結局居心地の悪い家族と同じだと思う。

家族だからある程度同じバックグラウンドを共有しているし、家族というだけで共同体としての行動を求められるが、突き詰めれば赤の他人の寄せ集めで。親も元は他人同士だし、子どもは親を選べない(親ガチャとか言うように)。どんなにお互いが嫌いでも、何故だか家族だからというしがらみがついて回る。

同胞も同じだ。
勿論仲良し家族がいるように、仲良しな同胞コミュニティも存在するだろうが……私の家族ならぬ、こちらの私の同胞はこんなだ。

日本人同士というだけで
・お互い助け合って当たり前、
・分け与えて当たり前、
・一緒に出掛けて当たり前、
・気の合う友として一人誘った相手が日本人ならば、「あのこはウチらをはぶってる」と言われ、
・それでいてお互いに比べ合って、
・表ではいかに充実した留学生活を送っているかのマウントを取り合い、
・裏では「どうやったら外国のこと仲良くなれるの?」なんてLINEしてくる、
・それで「今度、葵々ちゃんが外国人の友達と飲みに行く機会があったら、私も一緒に行ってもいい?」とか、

なんでやねん! 別に仲良くもないのに酒が不味くなるわ!


一言で言おう。めんどくせぇ!

しかし皮肉なことに、日本人だからわかり合えること、伝えられることもあるわけで。相手が日本人だから感じる居心地のよさだってあって。

それでも、日本人だからとか、外国人だからとか、私にとっての出会いと友情にはそんなことは関係ない。お近づきになりやすいかどうかに多少は文化的・言語的要因があるにしろ、結局は自分と目の前の相手次第だ。あるフランス人と仲良くなったらと言って、他のフランス人ともすなわち仲良くなるかと言われればそれは違う。

そんなこんなで、一人の人間の人生というものを、生き方を、生きるということそのものを、ふとしたときにぼーっと考えるのである。

スーパーの売り場ですれ違うだけの他のお客さん。いつも見かけるレジの店員さん。挨拶だけはするけれど名前は知らない顔見知りの留学生。一緒に授業を受けるクラスメイト。情報交換をする同居人。お互いに自国の料理を振る舞い合う飯友。フライデーナイトの飲み友。よく一緒に街に繰り出す外出友。厄介でも切り離せない同胞。毎日連絡する日本の親友。日本の家族。

沢山の人の沢山の人生の隙間に、私の人生があって。
私というたった一人の人間が生きるだけでも、その生きる道には、沢山の人の愛と思いやりと憎悪と無関心が絡みついている。

そしてその全てが、必要なことなのだと思う。

人間という動物の生き様には、なんであれ、そこに誰かもう一人人間がいて、その存在を知ることが必要らしい。

この二ヶ月。言語と文化の狭間で、人間はいかにして人間であるのか、なんてことを学んでいるような気がして。留学も悪くないなぁと、うだうだ記事に文句を書き連ねながら思っている。

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