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その日、女はデパ地下に閉じ込められた。

スウェーデンでの日常生活にはあるトラップが潜んでいることはご存じだろうか。名付けて「冷やかしホイホイ」である。

人間、生活していると誰しもこんな瞬間が訪れる。
「ちょっとあの店入ってみよう。良いものが売っているかもしれない」

明確に買う気はないが取り敢えず入ってみることを「店を冷やかす」と言う(関西の言い方らしい)。が、……ストップ! スウェーデンでは注意が必要だ。

そう、これはまんまと冷やかしホイホイにしてやられたしがない留学生の哀しき物語である。


某日。ストックホルムにて。

葉山葵々と名乗る女はリカーショップ "Systembolaget" を目指して適当な入り口から駅直結のデパート、"Åhléns" に脚を踏み入れた。クラスの友人、ジャニンに言われた、「とてもじゃないけど、21には見えないよ」という言葉を胸に。大丈夫。リュックにはパスポートが入っている。

本当は駅の中から入る入口があるのだが、愚直な女、葉山は取り敢えず地上に出てから入口を探すのが常である。すでに三度以上は行っているはずのデパートであるが、未だにGoogleさんの案内を頼りにしている。ここからうかがえるのは葉山が方向音痴だということである。

はてさて、そんなこんなで無事建物内に侵入した葉山はエスカレーターを前に簡素な館内案内表を凝視する。現在地はEと書かれたフロア。つまりエントランス階にいるということだろう。さっと視線を走らせると-2のフロアに"Systembolaget"の文字を見つける。が、目の前のエスカレーターはどうやら下には行かないらしい。

そうとなれば、後ろへ振り向き別のエスカレーターを探すしかあるまい。葉山はデパートのコスメショップを緊張した足取りで突っ切る。顔はあくまで平静を装う。通行人の少女然とした人物の様子がなんであれ、店員さんも他のお客さんもさして興味は示さないのであるが。

授業後で幾らか鈍い脳みそに案内されて辿り着いた下りエスカレーターにその女は脚を乗せる。

掛かった。

文字通り、吸い込まれる、後戻りの出来ないその入口へ。

降り立ったその場所がデパ地下の中央であることに気づくのにそれほど時間はかからなかった。目の前にあるのは炭酸水を中心に並べられたソフトドリンクの冷蔵庫で、鼻腔に広がるその匂いはフレッシュ野菜と香辛料と微かに乳製品の気配。そう、デパ地下の匂いだ。

実際、そこはデパートの地下二階、デパ地下だ。

ここでもうすでに、葉山は思う。嗚呼やらかしたかもしれない。いや、やらかしただろうな、と。キャンペーンであっても2クローナほど割高で見事にデパ地下価格の葉山御用達のチョコを尻目に。学校の近くだったらもっと安いのにな、と内心びびりながら一応は出口を探してみる。

勿論、出口はレジの向こう側にしかないのである。

とはいえ、決してこのとき初めて知ったわけではない。一度でもどこかスーパーに行ってみればわかるのだ。どういうわけか、スウェーデンのスーパーにはこの罠がデフォルトで実装されている。大学近くのスーパーも、観光地から少し離れた場所のスーパーも、このデパ地下も。

そう、これこそが「冷やかしホイホイ」
買わぬなら 買うまで出さぬ 鬼システム

チラリとその出口の向こう側に目を遣れば、嗚呼見えるではないか、"Systembolaget" の入口が。

憐れな囚われの葉山は考える。しれっとセルフレジコーナを突破出来ないだろうか。暫しそこに突っ立って、対岸の酒屋を見つめる。少女然とした21歳の女。そんな彼女にコンマ1秒でも奇異の目を向ける者はやはりいない。

葉山葵々は考える。
ここで0.1クローナでも金を落とそうというのか。今は円安だ。1クローナは約13円だ。そうでなくても物価はお高めだ。お金はなるべくケチって、旅行に行きたくはないか? 留学を目指して、好きでもないバイトを時給が高いというだけの理由で1年も続けた少し過去の自分をここで裏切ると言うのか?




なんでも良いからもう何か買えよ!

なんだかんだ。面倒くさい葉山は近くにあったゼラチン菓子、"bilar"を手に取る。スウェーデンの子どもはみんな大好きとかなんとか。

やけくそでセルフレジコーナに突進。
イマイチ勝手がわからないままモニターの指示に従う。心の中では「あ? あ? 」と少しアグレッシブな顔無し風の副音声が流れている。一個しか買い物がないのにこんなにも時間がかかる。

それでも誰かの視線を感じることはない。

さて、多分一度は日が暮れて、やっと次の太陽がお出ましになる頃、葉山は一枚の短いレシートを手に入れた。実際は5-10分程度だろうというツッコミは受け付けない。

これでやっと、ゲートを通過する時だ。
出口だ。
それは目の前だ。
透明のバーは目の前でその女を誘っている。
「私を通過して、次なる世界に羽ばたいて!」と。

それはきっと葉山を快く受入れ、扉を開いてくれるはずだと、葉山は迷いなく進んで、それで、それで……

開かねぇ。

なんだと、そんなの聞いちゃいねぇぞ。

目的地は目の前なのに、こんなにもどかしいことがあるものか。半ば反射的に右側に目を向けると、ちょうど綺麗なブロンドのお姉さんが華麗な動作でレシートをゲートの上部にタッチしている。

女は左の手の中にあるそのレシートを見て、バーコードをそっとガラスのくぼみに押しつけてみる。

開く。

そう。そのゲートは、ぬるっと、音もなく、あっさりと、その女を解放したのだった。


その後。
葉山葵々と名乗る女は最後にこんな言葉を残している。




「bilarマジうめぇ」


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