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#00 はじめに-「200円劇場とは?」

鈴木聡介の200円劇場という名称は、「200円を支払わないと享受できないコンテンツ」という意味ではない。思いついただけで、特に意味はないのだが、200円を支払ったくらいの感覚で観てほしいコンテンツという意味であるとでも言っておこうと思う。

私はしばしば、何かを議論したいと思うときや、つらつらと世の中の出来事や物事に対して持論を述べたいという衝動に駆られる時がある。しかし、こうした類の話は、相手が乗り気でなければ盛り上がらないし、正直に言って辛い。かといって一人でこんなことを話していたら・・・それはよく街で見かける危ない人になりかねないだろう。

私はX(旧Twitter)もInstagramもやってはいるが、どうもこうしたことを論じる文章を綴るには「違うよな〜」と違和感を抱いてしまう。Xはどうも苦手だ。私はネット界隈のミームをそれほどおもしろいと思ったことがないからだ。くだらないと思うことの方が多い。私の持論としてのXの使い方の最適解は、趣味を共有できるツールとして活用することだろう。何かに対する好き(like)を発信できる、享受できる、そうして出会うはずのなかった仲間と出会っていくというのが一番良い活用の仕方ではないのだろうかと思う。だから、何かを論じるとか、そうしたことをあまりやる場所(やりたい場所)とは思えないのである。

では、Instagramはどうだろうか。Instagramは自分の私生活を公開する場所として、私は活用している。例えば、友人と遊びに行ったとか、美味しいご飯を食べたとか、こんなおもしろいことがあったとか、旅行に行ったとか、何をしたとか・・・そういったことだ。ストーリーでも投稿でも、そうした場所なので何かを論じるという場所ではない。

そこで、このnoteを活用しようと考えたのである。不特定多数の人に、私の持論を文章にして見てもらえることができると思った。そうすれば、見たい人(いればの話だが)だけが、このコンテンツを読むことができるのではないかと思ったからである。

ここで述べることは、全て私の持論である。だから、「つまらない」とか「読みたくない」とかそう思うのであれば、読んでいただかなくても結構である。そして、これから読み進めていく上で、「不愉快」とか「辛い」となったら、それも同様である。要するに、「読みたくない!」と思ったら、そっと私のnoteを閉じてほしいと思う。本来、こうしたコンテンツは好きなジャンルを取捨選択できることに意味がある。批判するだけ、自らの優位性を誇示したいがだけのために、コンテンツを享受し、リアクションする人間を私は心底、軽蔑している。
批判しないでくれといっているわけではない。
色んな意見や視点には触れてみたいと思うので、忌憚のない意見をお待ちしている。私も真摯に向き合いたいと思う。

では、早速なにかを話してみようと思う。

皆さんは、Z世代という言葉をご存知だろうか?
1990年代半ば〜2010年代序盤に生まれた世代の人々を表す言葉であるそうだ。(野村総合研究所(NRI) Z世代 用語解説の定義より)
私は現在、大学3年生である。(2002年世代の)2003年生まれである。現在21歳。私はバリバリのZ世代である。

しかし、私はZ世代という言葉があまり好きではなかった。メディアでは、「Z世代のトレンド」とか「Z世代の声」とかZ世代を画一的に取り上げているからだ。私たちは、たまたまその世代に生まれただけの赤の他人だ。顔も名前も、生まれも育ちも、趣味も価値観も違う、一個人なのである。そうした個性を無視して、「Z世代はこう考えている!」とか「Z世代の流行りはこれだ!」とかと、私たち個人に目を向けずに、Z世代という集団を強調して、大人たちが勝手なことを言っていることが許せなかった。

しかし、最近こんな興味深い話を耳にした。私たちの世代、すなわち、Z世代は、ジェネレーション・レフト(左翼世代)と呼ばれているそうだ。
世界では、Z世代やミレニアル世代が中心となって、格差問題や気候変動などの社会課題に、興味・関心を持ち、行動が活発化しているという。若者たちは、ラディカル(急進的)な社会運動の輪を広げているという。
(参照:「ジェネレーション・レフト」キア・ミルバーン Zブックス)

例えば、FFF(Fridays For Future)という活動は代表的である。これは当時15歳であった、グレタ・トゥーンベリさんがスウェーデンで始めた活動である。
グレタさんは、気候変動に対する行動の欠如に抗議するため、一人で学校を欠席し、スウェーデンの国会前に座り込みを行った。いわゆる、学校ストライキだ。
彼女の行動は、多くの若者の共感を呼び、世界的な広がりを見せた。
グレタさんは、COP(気候変動枠組条約締結国会議)で演説し、気候正義を訴えている。欧州では、これらの若者の声は無視できず、気候変動への関心が高まっている。日本では気候変動に対する関心はまだまだ消極的だが、FFFの活動が日本でも実践されるなど、その萌芽は見えつつある。
(参照:「ぼくはウーバーで挫折し、山でシカと闘い、水俣で泣いた」 斉藤幸平 KADOKAWA)

もちろん、私はこのジェネレーション・レフトという言葉も、ある種の意味の画一化した若者への眼差しになりかねないと考えている。
Z世代の若者の社会課題への捉え方も様々であるし、一部の若者を取り上げて、「Z世代は左傾化している!」というのも違和感を覚える。逆に日本では、「若者は保守化・右傾化している!」というのも同様だ。イデオロギーも多様であり、関心・不関心もまた多様である。

では、なぜ私が、このジェネレーション・レフトという言葉に関心を寄せて、この記事で取り上げたのか?それは、「若者は決して社会課題に関心がないわけではない」という希望が見えてきたからである。日本では、選挙権が18歳に若者の投票率が引き下げられるも、投票率は低下している。このことから、日本では「若者の政治離れ」とか「若者は社会課題に関心がない」という指摘がされ、社会問題として取り上げられている。

私は選挙権を得て以来、投票には行っている。政治や社会課題にも興味を持っている。しかし、最近の悩みは「どの政党も候補者も投票したいと感じない・・・」ということだ。どの政党も候補者も、日本の未来を良くしてくれそうな気がしない。かといって、日本の未来をよくすることを諦めたくはない。
だからこそ、ジェネレーション・レフトのような、社会運動が持つ力が大きのではないかと私は着目している。社会運動を通じて、社会に対して価値観の変容や行動変容を促し、さらには権力も無視できないほどの影響力を持つことが可能なのではないかと思えてくる。これは、「左傾化」に着目するのではなく、一つの社会へのアプローチ方法として注目すべき問題であると私は考えている。こう考えると、同じ世代に生まれた者同士、さらには世代を超えて、この地球に生きるものとして、繋がりあってよりよくしようと思えるし、異なる価値観をぶつけ合って対話を重ねて、視野を広げていきたいと思う。だから、私はZ世代という言葉がちょっぴり希望をもてるものとして、親近感を持てるようになった。

多様な立場の人、考えの人が、行動を起こすことで社会を少しづつ変容していくことは可能なのではないだろうか。政治主義から社会運動へのパラダイムシフトこそが、これからの世論の鍵ではないかと私は注目している。
そして、若者の政治離れは、私もひしひしと感じる。その理由も、一部の論客は「若者は政治主義に失望している」というが、それも画一的な視点だと思う。

私の周囲の友人は、「そんな難しい話はいいよ」という。それは、別に関心を持たなくても困らない水準の生活を享受できているからなのか、単に考えることを面倒くさがり思考放棄しているのか、難しくてよくわからないと感じているのか、「投票してもどうせ変わらない」という諦めなのか、私のように支持政党の喪失からなのか、はたまた私が思いつきもしないような理由なのか・・・きっと、様々であろう。

私は、政治主義はすでに限界を迎えていると考えている。
まず、そもそも日本はシルバー民主主義であり、若者が選挙において占める力があまりにも弱すぎる。選挙は多数決が前提であり、高齢者の母数が多いから仕方がない。そうなると、政治家はたちまち政治屋に変わり、本当に必要な政策から、自身が支持を得られる政策立案を行う。商業主義的な政治ビジネスである。
それに、政治主義において、民主主義であるのは選挙の期間だけである。選挙で決定された後は、次の選挙まで為政者が権力を独占する。そこに、私たちが介在する余地はない。まさに、選挙独裁である。だからこそ、絶えず社会に影響を与えられる社会運動はまだまだ未熟ではあるものの、その萌芽と今後の発展には未知の可能性が秘められているのではないだろうか。
(参照:「人新世の「資本論」」斉藤幸平 集英社新書)

だから、私の始める社会運動の第一歩にこの「鈴木聡介の200円劇場」はしたいという思いで設立したものである。同じZ世代、それ以外の世代にも、多くの人に私の思いを届けたい、そして学び合いたい、そしてその中で成長したいので、このnoteもまた未熟である。そうした思いから、「200円劇場」と名付けた。これから、どう成長していくのかは未知数であるとの期待もこの名前に込めた。

お付き合いいただける人は、ぜひお付き合いいただきたいと思う。

私の生まれた、平成という時代は「失われた30年」と呼ばれている。
しかし、失われたものばかりではない。21世紀初頭の約20年間において、世界はグローバル化やICT技術の著しい発展により、世界は一体化し、私たちに大きな恩恵をもたらした。しかし、その一方で、社会全体や個人生活においては、先行き不透明で不安が増大するような、VUCA時代と呼ばれる時代も到来している。
グローバル化によって、世界経済も安定的に持続的に豊かで成長すると考えられていた時代もあった。しかし、2008年のリーマンショックの発生は世界金融危機の勃発させ、100年に1度と言われる大恐慌を引き起こした、この大恐慌の影響は、今日に至るまで私たちの生活にも大きく影響している。これまで、経済成長のスタンダードとされてきた、新自由主義的なグローバリゼーションと、膨張した金融経済の反省を世界は迫られるようになった。
その後に台頭してきたのは、反グローバリズムを掲げた、ナショナリズム・ポピュリズム・排外主義を伴う右翼的潮流である。
トランプ大統領誕生による「アメリカ・ファースト政策」、イギリスのブレグジットや、各国の移民・難民の押し付け合いなど・・・
地球規模の課題に私たちは直面しているのに、分断にさらされている。

国内に目を向けても、2011年の東日本大震災では多くの復興支援の課題が未だに放置されている。完全に復興したとは言い難い。さらにそれに端を発する、福島第一原子力発電所事故は、私たちの日常生活が、人間の技術力を過信しすぎた危険なものを享受することにより成立していることを白日の下にさらした。2020年のCovid-19の到来では、私たちの日常は失われ、緊急事態宣言による外出自粛などの行動制限、未知のウイルスへの恐怖心などで私たちの不安と不満が爆発し、SNSでの感染者への誹謗中傷や、デマ情報の拡散、マスクの買い占め、陰謀論の流行など、情報社会に生きる私たちが、情報を扱う側ではなく、実は情報に踊らされる側であることを露呈した。
止まらぬ物価高、上がらない賃金、政治における汚職や不正問題・・・

ロシアによるウクライナ侵攻、イスラエルとハマスの戦争など、私は自分自身の無力さと勉強不足を感じずにはいられない、日々を過ごしている。

社会は、世界は、同じ危機に直面しているはずなのに。分断している場合ではないのに。誰もが平和を求めているのに。誰も同じ人間なのに。
どうして、人々は争い、傷つき、分断を助長してしまうのか。漠然としすぎているが、そうした問いにも挑んでいきたいと考える。
そして、この「鈴木聡介の200円劇場」が微力ながらも、世界の分断を阻止し、団結することに役立てるのであれば望外の喜びである。

それでは、またお会いしよう。

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