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マイホームとの別れ

-大好きだった「夢のマイホーム」


保育士の給料は世間一般の水準に比べて高くはありません。しかも、私も妻も公務員保育士ではなかったので、昇給もある年齢行ったら頭打ちでした。その後は都政が補助金を打ち切った影響で、唯一良かった賞与も2ヶ月近く減給。13年間汗水たらして働いて、手取りが19万の世界線て何?と福祉労働者の安月給を嘆いても仕方ありません。

それでも幸せなことに、30年ローンで夢のマイホーム…と言ってもマンションですが、自分たちの家を手に入れる事が出来ました。それまで子どもが欲しくても欲しくても出来なかった3年間。それが嘘の様に長男が誕生し、じきに長女も授かりました。4年後には次男までやって来てくれて、本当にこの家さまさまだったのです。

片親で育った私にとっては漠然とですが「両親のいる、ごく普通の家庭を築きたい」という夢がありましたから、学生時代に妻と出会い、この仕事に就いて結婚し、子どもを3人も授かることの出来たこの家は正に「夢のマイホーム」でした。


-10年間住んだマンションと別れる日


私がうつ病になってからも、病休中も保育園を退職後もマンションはそこにあってくれたので、ローンは大変でも住環境には事欠きませんでした。
しかし私の病気は良くなる素振りも見せず、退職金が尽きた頃には次をどうするかの選択を迫られていました。

再就職かマンションを手放すか。前の職場からは同じ系列の保育園を紹介されますが、実際勤めてみると理想と現実のギャップに頭がおかしくなりました。働いている保育士の意識が低すぎる…あんなに私のことを事故の時に酷く言った保育士たちですら、私が新しい保育園で出会う先生たちに比べれば幾分かは「まし」に思える程でした。

私の理想が高すぎると言われてしまえばそれまでですが、きっと二度と同じ過ちを犯さないための私なりの防衛術だったのかも知れません。
仕事に就いては短期間で辞職を繰り返し、私はいつの間にか周囲からの信頼も失っていきました。
ついに、マンションを手放す時が来たのです…

最後の日のことは、今でも鮮明に覚えています。
引っ越しのダンボールいっぱいのリビングで、家族写真を撮りました。そして引っ越しの荷物が全てなくなったところで、もう1枚パシャリ。
それから新しいマンションの近所にある蕎麦屋さんで、5人で引っ越し蕎麦を食べました。

子どもたちはその時、とても偉かったです。親の事情も聞かず、文句も言わず。ただ、今もあの頃を振り返っては、広い子ども部屋が欲しいと嘆きます。畳一畳分しか変わらないのにね。その分、10年間の想い出がたくさん詰まっているからね。



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