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言葉と認識とコミュニケーション

 仕事中、帰りに何をnoteに書こうかと考えていることが多い。仕事している間は色々とあれを書こう、これを書こうと思うのだが、いざ帰りの駅でスマホを開くと何を書けば良いかわからない。こういう時の為に仕事中に思いついたことはメモをとっているのだが、それを見てもどれもイマイチピンとこなかったりする。やはり鉄は熱いうちに打てということなのだろう。noteのネタは鮮度が命。と思っていたら、仕事終わり直前に興味深いことが起きた。

 数日前に私が担当した処理に不手際があり、それで少し問題が起きたのである。といっても、大したことではなくて、その場でパッと修正が効くものだったので良かったのだが、さておき引っかかることがあった。

 仮にその処理の名前をAとする。上司は私に「Aをやっておいておいてくれ」と指示し、私はAを実行する。ぢかし、実際にはAはBとCという二つの工程から成っていて、正確にはAをやれと言われたら、私はBとCを行っている。
A=B+C
という訳だ。ここまでは良い。

 問題は、Aをやってくれと言われた時、BとCをやる場合と、Bまででストップする場合があるということである。Aの指示だけではそれはわからない。なので私は、この指示が来た時「BとCでよろしいですか?」と言い換えて確認する。なお、BとCは使用している会計ソフトの操作の名称であり、実際には○○処理という風に名前がついている。これは上司含む全員が見ることができる会計ソフトの画面に共通した表記なので、客観性に優れていると判断して私は呼んでいる。いわば、通称で用いられている処理を、画面上の操作に置き換えているのだ。

 普段はそれで問題なかったが、今回起きた問題は、私がCまでやるべきところを、Bまでしかやらなかったことで発生した。先の通り、Cを別個やればいいだけなので大事には至らなかったが、私はこれに異議を唱えたい。

 前述の通り、その処理を行う時、私はBとCでいいですかと上司に聞いたのだ。そして上司はBで良いと言った。私はそれを覚えているし、私の性格上、確認しなかったとは思えない。石橋を叩いてブチ壊すのが私である。曖昧な指示を憶測で判断することはない。だって怖いし。

 だが、それについて小言を言われてしまったのである。ただそれだけなので実害も何もないのだが、釈然としないのである。

 より具体的な表現で示す。私は木材を切る仕事をしているとしよう。上司は私に『裁断』をしろという指示を出すが、それは木材をどの大きさで切れば良いかを測る『測量』と、実際に木を切る『切断』の2工程にわかれている。
裁断=測量+切断
ということである。

 この時、『裁断しろ』という指示は、『切断』まで行う時と、『測量』だけでいい時があり、私は指示があるたび「『測量』と『切断』で良いですね?」と聞くようにしている。今回は、『測量』までで良いと言われたにも関わらず、実際には『切断』までやらなければならなかったということだ。

 さて、私は「上司は『測量』までで良いって言ってたのに」と、上司の不手際を指摘したいのではない。誰だってミスはあるし、言い出したら結局は言った言わないの水掛け論である。証明できないのならどうしようもないし、争うことにも意味はない。そもそも、年単位で働いてるのに言葉の意味が理解できてないじゃないかとか、それじゃあお前は指示待ち人間じゃないかと言われてしまえば私は爆発四散する他ない。元より私に不利な戦場である。私はおとなしく否を認めて引き下がるし、実際そうした。

 私が言いたいのは、言葉の認識の違いである。先の例えを用いれば、上司と私では『裁断』の意味が違ったということである。だからこそ、こういったエラーが起きてしまった。考えてみれば、私は入社した際に話の通じない教育係に指導されたせいで、詳しい業務内容について聞くことができず、なあなあでここまで来てしまっている。別にそれが免罪符になる訳ではないが。『裁断』は職場の仕事におけるいわば専門用語なのだが、それに対する理解や知識の違いが、この事態を引き起こした。

 当たり前であるが、人は相手の頭の中を見ることはできない。「リンゴ」と言ったからといって、相手の言うリンゴと私の思うりんごは同じだという保証はない。もちろん、リンゴ程度であれば、食い違いは起こらないだろう。みかんでも、電車でも、飛行機でも起こらないはずだ。だが、それがより複雑な意味を持つ言葉であったなら、そうはいかない。

 バイクに乗っている時、「走り出す」と言ったとしても、実際にはキーを回し、エンジンをかけ、ギアをローに入れ、クラッチを繋げて少しアクセルを吹かす、といういくつもの手順がある。「走り出す」とは、それだけの動作を一言に省略しているのだ。

 この省略が、相手と自分で同じであれば良い。しかし、そうではない可能性もある。翻って、言葉の示す意味が違うということだってある。そういった、コミュニケーション上のトラブルの一因を、今日見たような気がする。

 クオリアという言葉がある。詳細はネットに投げるが、言うなれば「あなたの赤と私の赤は同じとは限らない」という疑問で、思考実験とも言える。私が見ているものとあなたが見ているものは同じとは限らない。私にとっては赤いリンゴで、あなたにとっても赤いリンゴだとしても、私があなたの目でそれを見たなら、真っ青なリンゴになっているかもしれないのだ。

 今回の件も同様である。あなたにとっての『裁断』と、私にとっての『裁断』は同じとは限らない。専門的な言葉が意味するところの認識の違いが、今回の悲劇であり、社会人のコミュニケーションの難しさである。

 再度になるが、上司を悪くいいたいのではない。どちらかと言えば非は私にあるし、追撃されれば塵となって風化するしかないくらいに私の立場は弱い。ただ、私のこういうエラーを避けたいからこそ「『測量』と『切断』ですね?」と聞いているので、そう言う度に嫌そうな顔をしないでくれと、そういう話なのである。

 そんな訳で、揉めたくないが為に、今日も上司にすいませんでしたと頭を下げる。問題解決にはなっていないが、それで事が収まるなら安いものだ。問題の先送り、これもまた社会人のコミュニケーションである。ああおっかない。

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