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迦陵頻伽のゆくすえは

スポットライトが消え、ゆっくりと幕が降りていきます。
それでも鳴りやまない拍手と歓声。余韻にひたりながら私は悠然と舞台裏に向かいます。
同じオペラ座の役者たちは満面の笑みで私に道を譲ってくれますし、たくさんの付き人たちは慌ただしく私の後ろをついてまわります。  
楽屋には色とりどりの花束とプレゼントで埋め尽くされ、私のために贈られた手紙は誰よりも多くて箱いっぱいです。
私はこのオペラ座の看板女優でした。

私がまだ新人であった頃、異国の旅人が私を迦陵頻伽かりょうびんがのようだと褒め称えました。
異国の鳥、迦陵頻伽かりょうびんがは天界に住み美しい神の声を持つ鳥だと旅人は言いました。
その鳥が、どのような姿をしているのか私には知るよしもありませんが、私が愛や希望を歌えば観客は涙を流して喜びます。
鏡ごし、本番を終えてなお美しく気高い私は本当に迦陵頻伽かりょうびんがになったような錯覚を覚えたものです。

ある日の黄昏、楽屋の隅にいる中年女優が髪をふり乱し泣き出しました。女優は赤い手紙を握りしめています。
「どうしたのでしょう?」
付き人の一人が私のなめらかな金髪をとかしながら不思議そうに首を傾げました。
若い付き人は赤い手紙の意味を知りませんでした。
「赤い手紙は解雇通知よ」
私には関係のないことだわ、そっけなく言い添えて私は水タバコに火をつけました。
薔薇の香りのする白い煙をくゆらせながら私はわざと手紙の箱をひっくり返します。
てにつづられた、たくさんの手紙はいとも簡単に床一面に散らばりました。まるでつぼみだった花が開くように。
そうすると、付き人たちは慌てて手紙を拾い集めます。その光景はなんとも言えない優越感を私に与えてくれました。
「あら、あれは」
散らばった中に黒い封筒がありました。私が指差すと、付き人は黒い封筒を拾い上げうやうやしく私に差し出しました。
黒い封筒の中身は両親の死をしらせるものでした。

いつものようにオペラ座の幕が上がると、私は迦陵頻伽かりょうびんがになります。
仕立ての良い燕尾服えんびふくの紳士も大きな宝石をつけた淑女も愛や夢の歌をうたいあげる迦陵頻伽かりょうびんがの前ではただの人です。
一度だって舞台に穴を開けることはできません。私はこのオペラ座の看板女優、迦陵頻伽かりょうびんがなのですから。
それなのに、黒い手紙はいつも箱の一番下にあって、浴びる喝采が大きければ大きいほど私の心に黒い影を落としていました。
ある時、付き人の一人が水タバコと手紙を運んできました。異国の香りをまとった手紙にピンときて私は胸を踊らせました。
異国の旅人からの手紙には迦陵頻伽かりょうびんがの姿が描かれていました。
上半身が人で、下半身が鳥。
迦陵頻伽かりょうびんがは私の想像とは違う、異形のものでした。
「化け物!」
私は顔を歪ませて手紙を破り捨てました。
そして、私はその日から次第に歌うことができなくなったのです。

愛や夢の歌がうたえなくなった私は、あっという間に楽屋のすみに追いやられました。
付き人はいなくなり、箱いっぱいに届いていた手紙はみるみる減っていきます。
そして、とうとう私にも赤い手紙が届きました。
歌えない迦陵頻伽かりょうびんがはただの化け物。
わざと箱をひっくり返しても、もう誰も手紙を拾ってはくれません。一番底に残った黒い手紙だけが、ひらひらと地面に落ちていきました。


森の奥、古びた教会の裏に私の両親は眠っていました。
霧雨の中の喪服の私は十字架の刻まれた墓石の前でうつむきました。
まるでスモークの焚かれた舞台の一幕のようです。
かすれた声で弔いの歌を口ずさんでみましが、両親は拍手をくれません。
こんなにも素晴らしい舞台なのに、ただポツポツと雨粒が傘を叩くばかりでした。

帰る家のない私は両親の眠る古びた教会に身を寄せることにしました。
歌うことのほか、何もしてこなかった私の白くて柔らかな手は日に日に硬く傷が増えていきました。
料理も掃除も洗濯も人並みにできるようになりました。けれども時折、オペラ座で涙を流す観客の姿が瞼の裏に浮かぶのです。
そんな時、私は神父様に尋ねます。
「またひとつ人に近づけたでしょうか」
私は歌えない迦陵頻伽かりょうびんが。もうあのオペラ座で愛や夢の歌をうたうことはできません。だから、せめて化け物にならぬよう生きるのです。
神父様はいつも困ったように微笑んで何も答えてくれません。

黒いビロードの天幕に満月を貼り付けたような夜でした。
私が窓際で水タバコを吸っていると、オルガンの音が聞こえてきました。
自室の扉を開け、礼拝堂を通りぬけて外に出るとオルガンの音はさらに大きくなります。
共同墓地のその向こう、冬枯れた立木たちきに紛れるようにして古びたオルガンはそこにはありました。
オルガンを弾いているのは神父様でした。
私に気がついた神父様は照れくさそうに眼鏡を外し、オルガンは最近誰かが捨てていったものだと教えてくれました。
「僕のオルガンはどうでしょう?」
神父様が聞くので、私は下手くそだと正直に言いました。
うち捨てられたオルガンは音階がめちゃくちゃで調律が必要でした。そして、調律には安くないお金がかかります。
それを教えると神父様は少し考えて、寄付を募ろうと言いました。
私は不安になりました。
神父様のオルガンの腕前はたとえ音階が正しくとも、とてもお金を払ってもらうような代物ではありません。
私の言葉に神父様は目を丸くしました。
「あなたは本当に誠実に音楽とともにあったのですね」
本当にそうでしょうか? 私はもう歌うことができません。誰もかれも、両親さえも、私の歌に拍手をくれません。
老いず、何事にも動じず、夢や愛の歌をずっと歌っていたかったのに。
私が迦陵頻伽かりょうびんがならばそんなことにはならなかったはずです。ほんとうなら。
「ほんとうは……私は迦陵頻伽かりょうびんがではなかったのですね」
上半身が人で、下半身が鳥。
迦陵頻伽かりょうびんがが私のところから羽ばたいていきます。
あんなに恐ろしい化け物だったはずなのに、私の足もとは途端に崩れていくようでした。
神父様は私の震える両手を包みました。
「……それでは、人として、音楽に誠実でありましょう。たとえ、不完全であっても私たちは許されるはずです」

翌日から練習がはじまりました。
神父様はオルガンを一生懸命に弾きます。私はメトロノームのように手を叩きながら譜面をめくります。
オルガンの音を聞きつけたのでしょう。礼拝堂の外、村の子どもたちが窓から顔をこちらにのぞかせてうたいます。
神父様は子どもたちを中に招き入れて、聖歌隊を結成しました。
先生は私です。
教会には音楽が満ちていました。
私はリズムを取りながら礼拝堂の一番後ろで耳を澄ませます。
誰もがオペラ座には遠くおよばす未熟です。でも、誰もが楽器を奏でることや歌をうたうことを楽しんでいます。
ひと時でも音楽の中で生き、歌をうたえる人生でよかった。
私は心からそう思いました。
爽やかな風と一緒に小鳥が礼拝堂に入ってきました。
小鳥は空中を旋回しひとなきすると、やがて音に溶けて消えました。
いつの間にか、私は歌を口ずさんでいました。

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