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中動態の研究〜「私は写真を撮る」は能動態なのか?(後編)

(前編はこちら

「私は写真を撮る」は、「私が私自身の意志により、その写真を撮る」という能動態の側面だけではなく、被写体があるその場所、それを撮ろうと思った経緯など、実際はさまざまな影響を受けながら写真を撮っている、、つまり、「私は自分の意志ではなく、(もろもろの経緯により)写真を撮らされている」という理解もできるということでした。

そして、そのような状態を表す”態(voice)”がかつて存在し、それは「中動態」と呼ばれるものだった、ということでした。

今の段階で、中動態とは「A100%でもB100%でもないもの」というような形での説明になっているため、もう少し中動態とはそもそもどういう状態を表しているのか?について考えてみましょう。

ここで参考になるのが、國分功一郎さんの著書『中動態の世界 意志と責任の考古学』です。さっそく、参照してみましょう。

"能動と受動の対立においては、するかされるかが問題になるのだった。それに対し、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる。"

『中動態の世界 意志と責任の考古学』P.88

「主語が過程の外にあるか内にあるか」は、どのように考えれば良いでしょうか?同書の解説を下に私が理解した内容を以下に記します。

ギリシャ語で中動態で表現された「彼は馬をつなぎから外す」は、単に彼が馬をつなぎから外しただけではなく、外した後に彼自身がその馬に乗ることが想定されています。この場合、馬がつなぎから外されることで開始されたその過程の内部に主語である「彼」がいます。つまり、中動態で活用された動詞「つなぎから外す」は、主語に作用したり主語の利害関心に関わっているということです。

他方、ギリシャ語で能動態で表現された「彼は馬をつなぎから外す」は、彼が馬をつなぎから外すんだけども、外した後に彼自身は馬に乗らず、第三者が馬に乗っていくことを意味しています。彼が馬をつなぎから外した開始させた過程は、彼の外で完遂されることになります。
中動態と対比させられる時、能動態における主語は行為の「主体」ではなくて、「単なる行為の開始地点」としての意味しかありません。そこに意志があるやないやの話は出てきにくいのです。

つまりは、下記のようになります。

"そこでは主語が過程の外にあるか内にあるかが問われるのであって、意志は問題とならない。すなわち、能動態と中動態を対立させる言語では、意志が前景化しない。

『中動態の世界 意志と責任の考古学』P.97


なるほど、そうすると中動態で「私は写真を撮る」というときは、「私」は「写真を撮る」し、撮った写真を使って表現をしていくわけですから、引き続き写真に関わる過程の中に「私」はありつづけるという意味になりますね。

他方、中動態と対比されるときの能動態で「私は写真を撮る」というときは、「私」はあくまで「写真を撮る」という行為の開始地点に過ぎず、撮った写真がどうなるかということに関しては「私」は関与しない、例えばカメラマンが写真を撮って、それを雑誌の編集者が利用する、という関係のときなどに該当しそうですね。


とすると、次に考えるべきは,必ずしも自分の意志だけではないし、必ずしも何者かに撮らされているだけでもない世界で写真を撮るという行為が意味するものは何か?ということです。

ここで、芸術の歴史を少し振り返ると、ヒントがありました。20世紀初頭、第一次世界大戦が終結した後の1919年に、アンドレ・ブルトン*1という若者が「自動記述」をはじめました。簡単にいうと、何を書くかを事前に決めず、ただ書くという行為をスピードを上げて実施したのです。

ふつう、何を書くかを事前に考えずに何かを書き出すということはやりませんよね?書く内容を事前に考えて、よく練って、それから書く。その前処理をすべてすっとばして、意識がついてこれないほどのスピードで書くことによって、自分の無意識にアクセスしやすい状況を作ったのではないかと思います。

不思議なのは、書くスピードをどんどん上げていくと、やがて主語が消え、述語が消え、自分という存在が文章から消え、最終的には何らかの単語が現在形で並べられているだけの意味不明な文章が出来上がるというところです。自分が文章を書いているのではなく、誰かが自分の所に舞い降りてきて文章を書いている。そんな感覚になるらしいのです。

私たちは普段見ている現実は、何もこの世の中の真実ではありません。人間の眼が捉えられる可視光線は紫色から赤色まででしかなく、電磁波の波長でいうとごく一部分の波長のみが可視光線として目で感じられる程度です。x線や紫外線、マイクロ波などは眼で感じることはできません。また、音についても人間が聞き取れるのは20Hzから20,000Hzの間と言われています。そもそも、私たちが感じられるのは自然のごく一部にすぎないのです。

自らの意識が及ばない領域にアクセスすることで、主観が消え、そこに普段の日常の約束事には無いような、未知の驚きを呼び起こすような現実が現れるーこれが、アンドレ・ブルトン以降20世紀芸術界最大の潮流となったシュルレアリスム*2の根本的な考え方です。


さて、以上のようなシュルレアリスムの考え方をヒントにすると、中動態的な世界観になにか彩りのようなものが与えられそうです。以下、未来の自分が語りかけてきた引用という体で書き記します。

自分が撮りたいと感じたものを、ただ撮ればいいのだ。街に出て、ふとした瞬間に気になったものを光と撮像素子の織りなす現象として保存する。これしかないのだ。自ら考案したコンセプトに基づきそれを映像化するとか、ストーリーを意識して写真を撮るというジャーナリズム的アプローチは、僕には難しそうだ。まず、撮りたいものを撮る。その後で、それが何だったのかを写真を通して「知る」。撮影中は、余り考えずただただ撮りまくればいいのみだ。それが一番楽しいに決まっている。そして、夢中で撮った写真を後から振り返って、一体自分はなぜこの写真を撮ったのだろうか、、、?と振り返る。

しかし、そこに自分の意志はない。まさに、偶然と主観の結果として写真が生まれ、自分はそうして生まれてきた写真たちと向き合い続けることしかできないということである。

私が撮った写真が世の中で評価されるとき、世の中は「私が作った写真集だ」と認識してその作者である「私」を賞賛するだろう。その時、「私」は写真集を紡ぎ出した意志ある存在として世の中に認められることになり、「私は写真を撮る」は、現代の能動態ー受動態のパースペクティブで捉えた世界観に移行する。

賞賛という行為によって社会が「私」をその作品を産み落とした「意志ある存在」として後から付け足すのだ。

そうして「意志ある存在」となった「私」は、私らしい作品を撮ろうとする結果、世の中に求められる作品を追い求めることになる。そこに、未知の世界に偶然出くわすような驚きや感動はもはやみられない。

中動態の世界観であり続けるためには、芸術はときおり社会から少し距離を取ることも必要なのだ。

しかし、離れすぎてもいけない。絶妙な距離感ーつまり、うまくつきあうしかないということだ。

写真は、それが芸術である限り偶然でなければならないのだ。

未来の自分より

脚注:

*1:1924年、「シュルレアリスム宣言」を世に出しムーブメントを作り出した人。自動記述のスピードを上げるとどうなるのかという先鋭的な実験を繰り返した。
*2:20世紀はじめに登場した思想・運動で、文学や美術、映画や写真など幅広い芸術の領域にまたがって影響を与え続けた。著名な芸術家として自動記述で有名なアンドレ・ブルトン、マックス・エルンスト、サルバドール・ダリなどがいる。


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