Want Moreに関するあれこれ
本物のブルーズマン
パワーワードを散りばめた歌詞が耳に残るこの曲、サウンド面ではウエイラーズに新加入したリード・ギタリスト、ドナルド・キンゼイ(Donald Kinsey)をフィーチャーしています。
キンゼイは1953年インディアナ州ゲーリー(Gary)生まれのアフリカ系アメリカ人。ブルーズ界ではかなり知られたギタリストです。
ビッグ・ダディ・キンゼイ(Big Daddy Kinsey)というステージネームで活動していたミシシッピー州出身のブルーズマンを父として、ブルーズとゴスペルをシャワーのように浴びて育った二世ミュージシャンです。
幼くしてギターを手にしたキンゼイは父のバンドの専属ギタリストとなり、10歳を過ぎた頃には「B. B. キング・ジュニア」と周囲の大人から呼ばれていたそうです。
ビッグネームに誘われて
17歳の時にコンサートでゲーリーを訪れたブルーズ界のビッグネーム、アルバート・キング(Albert King)にスカウトされ、彼のバンドにの一員として3年間全米各地のみならずヨーロッパでも演奏した早熟なミュージシャンです。
アルバート・キング・バンド時代の若き日のキンゼイの演奏はこの動画で観ることができます(アルバートの休憩中、5:01から約2分間代役としてソロを担当)。
20歳でアルバートの元を離れたキンゼイは兄ラルフ(Ralph)と共にWhite Lightnin‘という3人編成のブルーズ・ロック・バンドを結成、オリジナル曲を手にNYに行ってレコード会社を回ったそうです。
Island Recordsへ
4社目か5社目に訪問したIsland Recordsで彼らは見事契約を獲得しました。
当時世界最大のインディーズ・レーベルだったIsland Recordsにはボブ・マーリー以外にもスペンサー・デイヴィス・グループ(The Spencer Davis Group)、フェアポート・コンヴェンション(Fairport Convention)、キング・クリムゾン(King Crimson)、フリー(Free)、キャット・スティーヴンス(Cat Stevens)、トラフィック(Traffic)といった主にイギリス出身の著名なロック系アーティストが所属していました。
White Lightnin’はIslandからデビュー・アルバムをリリース、ZZトップ(ZZ Top)やエアロスミス(Aerosmith)といった人気ロックバンドのライヴでオープニングアクトに起用されましたが、ビジネス面でうまくいかず、ほどなく空中分解しています。
ボブやレゲエとの出会い
キンゼイがボブを知ったのはこの頃です。
キンゼイによると、ある日NYのIslandオフィスに行くと壁と言う壁にウエイラーズのポスターが貼ってあったんだそうです。
ボブどころかレゲエもまったく知らなかった彼は好奇心をそそられて、オフィスにあったウエイラーズのカセットテープを数本試聴し、たちまちボブたちの音楽の虜になったと言われています。
ボブ本人との出会いは1975年です。
出会ったんですが、ボブに誘われてウエイラーズに入ったのはそれから一年も後のことでした。
ほぼ同じ頃に知り合ったピーター・トッシュ(Peter Tosh)に先にリクルートされたキンゼイはピーターのソロ・デビュー盤Legalize Itで初めてレゲエを演奏、その後の一年間はピーターのバックバンドの一員としてツアーに参加していました。
ウエイラーズ加入
ウエイラーズに加入したのは1976年に入ってからです。
同じアフリカ系アメリカンのギター奏者アル・アンダーソン(Al Anderson)がウエイラーズからピーターのバンドに移った際にバトンタッチする形で敏腕ジャマイカ人ギタリストのアール・チナ・スミス(Earl Chinna Smith)とふたり同時に加入しました。
ウエイラーズとしての活動は、アルバムRastaman Vibrationとリリース後におこなわれたプロモーション・ツアーだけです。
狙撃事件後に離脱
これはこの後「Rat Raceに関するあれこれ」に書く予定の1976年12月に起こったボブ狙撃事件のせいです。
事件直後、一命をとりとめたボブはジャマイカを脱出、ロンドンで生活し始めました。その結果、ウエイラーズは一時的に活動休止状態となり、仕事場を求めてキンゼイはピーターのバンドに再加入、そこからボブとは別の道を歩んでいます。
在籍期間はわずかでしたが、エレクトリック・ブルーズの第一線で活躍していたキンゼイはリード・ギタリストとしてウエイラーズ史上最強でした。
ブルーズマン・キンゼイのギターには自在に「泣くフィーリング」があります。
それこそがおそらくバンドをWailers(泣き叫ぶ者たち)と名付けたボブが探し求めていたものです。
このライヴだと、5:33からの三曲(Burnin' and Lootin'、Them Belly Full、Rebel Music)を聴けばキンゼイの持ち味がわかると思います。
1979年にピーターとのツアーが終わった時点でフリーとなったキンゼイはボブに声をかけられてアメリカ西海岸でのいくつかのアリーナ・コンサートでウエイラーズに再合流、ステージを共にしています。
キンゼイがボブと過ごした時間はこれが最後となってしまったようです。
ボブの死後、キンゼイは二人の兄弟とファミリーバンド、キンゼイ・レポート(Kinsey Report)を再結成して父親のライヴをサポートしたり、ロイ・ブキャナン(Roy Buchanan)の2枚のアルバムレコーディングに参加したりしています。
がんばれ キンゼイ
最後に残念な事実をお知らせしておきます。
つい最近までブルーズとレゲエを演奏し続けていたキンゼイですが、2023年6月に交通事故に遭い、重症を負って集中治療室に入ったと伝えられています。
その後の情報がないので彼が今どんな状態にあるのか、分からないのですが、音楽活動再開というニュースは残念ながら流れていません。
ウエイラーズ・ファンのひとりとしてキンゼイの回復をこころから祈りたいと思います。
それじゃ今回はこのへんで~
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?