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両親に反対されながらも決めた専門学校への道 Ep 0.4

サラリーマンの傍らカイロ学校に通ってはみたものの、結局モノにはならないままに時間が過ぎていきます。

どうしたらいいものか。
そんなことをグルグルと考えながらも、手技療法への道は諦めきれません。

偶然にも、当時勤めていた会社の先輩から週末のアルバイトを紹介されました。それは、趣味を活かした社交ダンスの仕事です。
折しも、Shall we dance!? という映画が公開され、ダンスブームが到来していました。

流されるまま、という言葉が相応しいのか。
のちに専門学校に通うようになると、ダンス喫茶で働いていたことは自らの生活を支えてくれました。芸は身を助ける、とはこのことです。

親に相談してみると

とにかく、今の仕事には区切りをつけよう。

まずはそこからスタートです。
高校まで過ごした実家に戻るつもりはさらさらありません。かといって、東京で新しい道を切り拓きながら生計を立てていくことはできるのだろうか。
若いということ、それ以上の強みはありません。

何か資格を取って身を立てたいんだ、という意志を持って年末に田舎に帰省したのは27歳の冬のこと。

前々から仕事が合わないことは、家族で話をしていました。
しかし、いざ直談判すると、両親ともにしばらく黙り込んでしまいます。
実家には3泊4日滞在していたのですが、最終日に父親から『国家資格を取ったらどうか』と勧められました。

これには後日談があります。
母が60歳を前に他界したとき、葬儀場で父親から「あの時、母さんは反対していたんだぞ」と聞かされました。

国家資格…。
20代も後半に差し掛かり、今さら医者や看護師になる訳には行きません。
ほかにある資格と言えば、美容師、理容師、理学療法士、マッサージ師。
東京に戻ると、急ぎ入学願書を取り寄せて専門学校を受験する手続きを取りました。

親の勧めで専門学校を受験してみる

狙いを定めたのは、都内にある2つの専門学校。
ひとつは八丁堀にある鍼灸マッサージの学校。そしてもうひとつは「指圧の心 母ごころ おせば生命の泉湧く」で名を馳せた指圧の専門学校でした。
両校ともすでに推薦入試、一般入試は終了しており、2月に行われる予定の社会人二次募集は若干名しか合格しない、と事務局から回答がありました。

人生の岐路には、ヒリヒリする感触があります。
自分はこれからどの道に進んでいくのだろう。
運よく合格して、マッサージの資格を手に入れて独立できるのだろうか。
もし、不合格だったらどんな道が待っているのだろう。
いざとなったら、社交ダンスの教師になろうか…。

そんなことを夢想しながら、専門学校の受験日を迎えました。
集まったのは総勢40名ほど。
この中から若干名が選ばれる、そう思うと狭き門です。

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高校受験よろしく、数学、社会、英語などのほかに小論文の課題もありました。そこには、医療人としてどうあるべきか、という趣旨の設問がありました。

薬や手術に頼らないで健康でいられるにはどうしたらよいか、と自らの想いを記した覚えがあります。それは幼少期に母が西洋医学に見放され、多くの治療院を巡り歩いた記憶も結び付いています。

面接では、2人の教官が待ち受けていました。
受験番号と氏名に続いて志望動機を述べます。
いくつかの質問に答えると、ぜひうちに入学して頑張ってほしいという旨の言葉が返ってきました。

まさか、誰にでも言っているリップサービスだろう、という気持ち半分。
本当に合格できたらどんな未来が待っているんだろう、というワクワクした気持ちが交錯しながら、のちに通うことになる専門学校を後にしました。

そして2週間後。
2月の終わりに通知が届きます。
それは手技療法への扉を開く、合格の片道切符でした。

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physical, mental, spiritual and social well-beingに生きるお手伝いをしています。2020.3に独立開業しました。家族を大切にし、一人ひとりが生き生きと人生を楽しめる社会が訪れるといいなと思いながら綴っています。