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恥ずかしいを探しに行く。一頁目「自己啓発本みたいな文になること」

保育園のときから恥ずかしいという気持ちがたくさんあった。誰かと話してたり、遊んでるときも、居るだけで恥ずかしかった。

究極の恥ずかしがりやなのはないかとおもってきた。なのに、目立ちたがりやで、なにがしたいんだろう。とまだまだ36才でも謎がありますね。

そんな自分を恥じたことしかないような人間なので、そんなに自動生成されてる『恥ずかしい』ならば、ネタが尽きないのではないか?と毎日描いてみることとしてます。

文は景色を描けたらよいな。


最近、白抜きにトキメキを覚えた。


雑誌に片思いしてきた人間、どこまでもコピー機ですね。どこかでみた写真。なのに作れたことににやけています。


コピー50部と言われたら30部くらい誤印刷するやつなのに。


コピーと言えば、「どうやらオレたち、いずれ死ぬっつーじゃないですか 」というリリーフランキーとみうらじゅんの対談本を思い出す。この本のタイトル良すぎません?


昔図書館の在庫を探していた。インターネットで。


皆、死ぬことわかってるのに、知らないふりする、忘れてるふりの方が不思議だったんだよね。


ネットで図書館を観ていて、中々おいてないから、いつか読みに行こうと思って、数年間全く行かなかった。気持ちだけね。


そんな時に、文庫本が出て嬉しかった。


その中に「俺たちも親のクローン(コピー)じゃないですか?」というような内容があった(うっすら引用なのですみません、多分こんな内容)


オリジナルなんてないって話ね。


それから、自分って大したことないって事と、自我がちょっと溶けたかなと思えた。


自我の雪解けを狙うなら、あの本100回読めば良さそうな気もする。


「私は大した人間です。ダッフンダ」と思っていたと思うんだよね。「そうです、私が変な人間です。」


っていう感じで、自分の事をね。


オリジナルなんてないのに。「私曜日、どうでしょう!?」系の時期、が振り返ると恥ずかしい。


恥ずかしさに気づいたら

もうできなくなると良いな。


恥ずかしさって魔法溶けたみたいな時間ね。夢覚める。


最近の恥ずかしさは、自己啓発みたいになる自分の文章でした。


『なんで私たちの文って自己啓発っぽくなっちゃうんだろう?』を分解していました。


何でも線で繋げようとするからじゃないかと思いました。きっと脳みその記憶って線で繋げたり分類するのが好きなんでしょうね。


過去の産物で私が形成されている。と勝手に理論づけているんだろうけども、


なんか文学から凄く遠い北極と南極くらい離れた、薄さを感じたんだよね。それがなんでだかわからないんだけど、寒々しかった。


だから、昨日くらいから、私はこういう事をしてきたし、この経験もあるけども、だからと言ってその経験からこの性格ができたとは限らない。という

定義を持つこととしたのですよね。


そんなに実は関係してないかもしれないと思うなんて人生で初めてかもしれません。


そうすると、長いマフラー編んだみたいに人生が繋がらなくて、誰かの首も自分の首を絞めすぎることもない。暑苦しさが消えて、なんだかとても軽くなった気分。


途切れ途切れにして、空白と、想像させる余白を持つ、記憶を散らばって、


心の隙間だらけの煌めいた道の真ん中で横たわって眠りたい。


自己啓発本みたいな私にデリートを押した。


何処までも続く、恥ずかしさを

あしたも探してみようと思います。

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