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《第十四回,読書のあとに》


 新感線が現れて、携帯電話が現れた。より早く、より便利が主流になった。大衆は喜んだ。おかげで時間とお金に余裕が生まれた・・・だろうか。
 気がつけば時間もお金も浪費し、そして、さらに便利を求めるようになっている。時間とお金があっても、贅沢は敵だと言わんばかりの人々の目を気にして何も出来ない。

「今の人はいいよなあ。俺たちがガキの頃にゃ、電話するにしても一苦労だったんだ」

「今の人はいいねえ。アタシたちが小さい頃は、旅行なんてそれはそれは大変でねえ」

 でも、大変と言う顔に浮かぶ皺には、悲しみよりも充実感が刻まれているような気がする。

 そんな顔を見る度に思う。

 あの頃は、良かったんだろうなあ。
 今は、良くないんだろうなあ。

 どんどん文明は進歩している。手軽に旅行に行けるし、どこにいたって連絡を取り合うことが出来る。便利を求めているはずなのに、便利がドンドン実現しているはずなのに。
 どうして私の心はこんなにもパサパサしているのだろう。

 そんな事を思っている時に、ある小説に出会った。


 古内一絵 著
『鐘を鳴らす子供たち』

 物語の舞台は昭和22年の日本放送協会(NHK)だ。当時大流行したラジオドラマ「鐘を鳴らす丘」(作:菊田一夫)をモチーフに、ラジオドラマに出演する小学生たちの青春が描かれている。

 青春といっても今の私たちが想像する青春とはワケが違う。なぜなら、彼らが過ごした時代は敗戦直後の日本だからだ。
 私が学校で勉強した程度の知識だと、戦争の次はすぐに高度経済成長になり、日本の「復興」が全面に押し出されてくる。しかし、実際はそうではないらしい。敗戦後、確かに人々の生活は変わった面もあったが、まだまだ焼け跡は残ったままで、復興には程遠く、闇市でヤミのお米を手にしなければ餓死してしまう人が大勢いたらしい。
 授業では教わらない、敗戦した日本。戦後の日本が存在した。

 小説を読み進めると、物語を駆け抜ける子ども達と同時に、当時の日本の生活がありありと見えてくる。占領軍の存在。日比谷公園は名前が変わり(ドーリットル・フィールド)、日本放送協会内のトイレには「日本人の使用を禁ずる」の張り紙。戦災孤児(当時は浮浪児と言った)が生まれ、汽車に乗るアメリカ兵にチョコレートやガムをもらうために英語を学ぶ子どもたち。都心から流れ込んでくる食べ物の臭い、そして、腐敗臭やアンモニア臭。
 敗戦後の世の流れに疑問を抱くが、大人からは何の説明も受けることがなかった子どもたちの曇りのない視点で物語はグングン進んでいく。
 黒く塗りつぶした教科書。爆弾を落とした国の兵隊からもらったケーキの美味しさ。数々の矛盾に立ち向かいながら、ラジオドラマに出演するという大役を担った少年少女たちの奮闘、彼らの叫びに涙しながら読んでいた。

 両親、祖父母、ご先祖様が生きた大変な時代が確かにあった。次の世代のために・・・私たちが幸せな生活を送れるようにと便利を作り出してきた。
 皮肉にもそんな思いに反してポッカリ空いてしまった私の心の穴を、この小説が埋めてくれたような気がした。
 この便利が進む時代に生まれてきたことこそが「私たちの問題」であるのだ。心がパサついていると分かっているのに、何もしない私がいる。これは、私の問題であり、同じ時代を生きる私たちの問題なのだ。
 子ども達の叫びと同じだ。
 そう思うと元気が沸いてきた。

 そうだ、友人の俳優にこの小説のことを教えてあげよう。彼は、今まさに戦後の日本放送協会をテーマにした舞台の稽古中のはずだ。こんなにもピッタリの小説はない。
 彼に連絡するのはいつぶりだろうか。なかなかキッカケを掴めずにいた。便利が進歩して、いつでも連絡が取れるんだ。会いにいけるんだ。この小説以外にも話したいことは山ほどある。彼が好きなアニメに私もハマった話。一緒に行きたい展覧会がある話。夢に出てきた話・・・。

 私は“新しい時代”を生きる覚悟が無かったんだ。

 本当に素敵な小説に出会えた。
 頑張ろうと思う。
 見ててね。ミナリさん。

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